少年に還る服
ジーンズはジーパンのことである。「ジーン・パンツ」とも「ブルー・ジーンズ」ともいう。
今日の「ジーンズ」は世界共通語といって良いだろう。アメリカはもちろん、イギリスフランス、イタリア、ドイツなど、たいていの国で通じる言葉になっている。
正統ジーンズは「ファイヴ・ポケッツ」だとよく言われる。しかしそれ以前に、ブルー・デニムであることが、条件であろう。ブルー・デニム製のパンツをなぜか「ジーンズ」と呼んでいるのである。
ジーン jean とデニム denimは、似て非なる生地。いずれもコットンによる綾織物ではあるが、「ホワイト・バック」 ( 裏白 ) の有無によって区別される。生地の裏が白く見えるようなら、デニム。そうでないなら、ジーン。ジーンも古い生地ではあるが、ここでは割愛する。
今のジーンズが生まれたのは、1873年のアメリカ、サンフランシスコにおいて。リーヴァイ・ストラウスによって。同じ年の5月20日に特許を得ている。
この時の商品名、「ウエストハイ・オーヴァーオールズ」であった。では、1870年代のサンフランシスコの愛用者は、「ウエストハイ・オーヴァーオールズ」と言ったのか。ノーである。たいていは、「リーヴァイズ」 Levis の名で呼んだ。
「鉱夫たちの服は、グレイのシャツとリーヴァイズである。」
1949年『ロックス・アンド・ミネラルズ』誌には、そのように出ている。1940年代よりもはやく、アメリカ西部の「リーヴァイズ」は、当然、東部にも伝えられた。「リーヴァイズ」の名前とともに。アメリカで「ジーンズ」の言葉が使われるのは、第二次大戦後のことではないだろうか。
それはともかくブルー・デニム製のパンツを「ジーンズ」と呼ぶのは、ひとつの謎でもあろう。謎は日本にもあって、なぜ「ジーパン」なのか。「ジーパン」は昭和二十年代に生まれた言葉。一説に、GIが持って来たパンツとも。しかし昭和二十年代の日本での「パンツ」は純然たる「下着」であったから、これも不思議な話ではある。
ただ、日本での最初の「ジーパン」が駐留軍によってもたらされたのは、事実であろう。GIたちが何かの物々交換に、アメリカ煙草やコーヒー、などとともに、「ジーパン」もあったに違いない。それにしてもなぜ「ジーパン」なのか、私には分からない。謎は謎としておこう。
「ジインとかペダル・プッシャーとかいって、アメリカ製の細いズボンで、下が二吋ほど裏返るようになっていて、そこに裏布の出ているのもあります。」
これはマダム・マサコが『婦人画報』 ( 昭和二十九年三月号 ) に書いた文章の一節。ここでの「ジイン」を今のジーンズだと解するなら、比較的はやい例であるかも知れない。また、「裏布」は、いわゆる「チェック・バック」のことと思われる。当時のジーンズは主に保温を目的に裏地を張るのは、珍しくことではなかった。
「青いジーンに赤いシャツを着た十一二歳の女の子の後姿と……」
曽野綾子著『遠来の客たち』 ( 昭和三十年発表 ) に出てくる一文。ここでの「ジーン」も、ジーンズのことと考えて良いだろう。ただし「ジーン」をはいているのは、アメリカの女の子。
曽野綾子は昭和二十三年の夏、箱根のあるホテルでアルバイトをする。『遠来の客たち』は、その時の見聞から生まれた小説。つまり時代背景としては、昭和二十三年のことであろう。昭和二十三年に、曽野綾子は「ジーン」が何であるか認識していたわけである。
「たくましい顎をつたってそれは一滴、一滴、ズボンがはちきれそうなくらいに太い、よく発達した膝のうえにおち、埃によごれた粗末な綾織木綿のジーパンにしみこんでいった。」
開高 健著『片隅の迷路』 ( 昭和三十六年発表 ) には、そのように書かれている。これは、坂野青年がはいている「ジーパン」。国産のジーパンは昭和四十年の誕生とされるから、これはアメリカ製の「ジーパン」であったのだろう。当時は日本各地に、「アメリカ中古衣料」を扱う店があって、その片隅に「ジーパン」が積んであったものである。
「歳が幾つになっても若い人の心を失わない男は、やはりジーンズを着たくなるようだ。」
古波蔵保好著『男を創るセンス』昭和五十一年刊 ) には、そのように書かれている。ここでは「ジーンズ」になっている。日本で、ジーパンからジーンズへと移り変わるのは、1970年頃のことである。