バスク・シャツ(basque shirt)

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海潮衣裳

バスク・シャツはバスク・シャツである。私の乏しい言葉では説明が届かない。ボート・ネックの、ホリゾンタル・ストライプの、七分袖の、コットン・ジャージーの……。いくら形容を重ねても、あのバスク・シャツの海の匂いには近づけない。
バスクはごく大まかにいって、フランスとスペインに挟まれたさして広くはない地区のことである。海があり、山がある。これを俗に「海バスク」、「山バスク」と呼んだりもする。バスクにはバスクの言葉があり、それはフランス語ともスペイン語ともまったく異なる。今なお言語系列が定かではない。言葉ひとつそうであるように、バスクは神秘の地域でもあるのだ。

「ボーダーのマリンシャツと共に、何故だか海を感じさせる典型的なフレンチなアイテム。というのは妄想だったのかもしれない。本来、ボーダーシャツは船乗りの仕事着、エスパドリーユは山道を歩きやすくするためにエスパルト草という草の繊維で底を編んだ仕事靴だったからだ。」

長尾智子著『わたしとバスク』にはそのように書かれている。バスク・シャツ、バスク・ベレー、エスパドリーユ。もしこの三つがバスクの生まれであるとするなら、奇跡ではないだろうか。バスクの広さとその影響力とを考えるなら。
今日のバスク・シャツの源がその昔のフィッシャーマンズ・スェーターであるのは、まず間違いない。あの特徴的なホリゾンタル・ストライプは、波を活写したものではないだろうか。今のバスク・シャツはコットン・ジャージー主体であるが、初期のフィッシャーマンズ・スェーターはウール・ジャージーであったはずだ。
地図を広げるまでもなく、バスクはビスケー湾に面している。ビスケー湾に面して良港が多い。
ミアリツェ、ゲタリア、エンダイア、オンダビリア、サラウツ、ムトゥリク、……。これら数多くの港町に共通しているのは、鯨。必ずといって良いほど、町の旗印に鯨の絵が描かれているのだ。
一説に、鯨漁はバスクにはじまるという。バスクでは少なくとも紀元前四世紀に、鯨漁が行われていたとのことである。十六世紀には、はるかアイスランド、グリーンランドにまで、鯨をおったと、伝えられている。
鯨漁は個人で行うものではない。集団で皆で力を合わせて、鯨に向かうのだ。そこには当然のことながら連帯感が生まれてに違いない。ウール・ジャージーによる縞柄のフィッシャーマンズ・スェーターもまた、その連帯感と無関係ではなかったはずである。
バスク人にはユニイクな人物が少なくない。古いところでは、フランシスコ・ザビエル。アントニオ・ガウディ。モードの世界では、アンドレ・クレージュ。
バスク出身ではなかったが、バスクを愛した人に、ピカソがいる。パブロ・ピカソは、スペイン、マラガの生まれである。ピカソの『ゲルニカ』によっても、バスク愛のほどが窺えるであろう。
1937年4月26日、ゲルニカは大爆撃を受ける。これはスペイン内乱との関連からであった。そのスペイン内乱を取材したのが、ヘミングウェイ。
バスク、ゲルニカは神聖な場所でもあって、歴代の領主はこの地の木の下で、法の誓いをする習わしであったのだ。
ピカソは『ゲルニカ』を描き、バスク・シャツを着た。
1952年9月、フランスの写真家、ロベール・ドアノーはバスク・シャツ姿のピカソを写している。
ロベール・ドアノーは南仏、ヴァロリスのピカソ邸を訪ねている。その時ピカソは昼食中。「ビールを一杯やりたまえ」と、ドアノーは勧められたという。同じ日にドアノーは『ピカソとカマキリ』と題する写真も撮っている。『ピカソとカマキリ』もまた、バスク・シャツ姿なのだ。

「洗いたてのショーツ、古びたバスク・シャツにモカシンという姿で外に出……」

ヘミングウェイ著 沼澤洽治訳『海流のなかの島々』の一文。これは明らかにヘミングウェイ自身を思わせ主人公の様子。ヘミングウェイもまた、バスク・シャツを好んだのであろう。

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