ブルーとモーニング

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ブルーと題につく名曲といえば、『ラプソディー・イン・ブルー』ですよね。もちろん、ジョージ・ガーシュインの代表作。
『ラプソディー・イン・ブルー』が、ポール・ホワイトマンの呼びかけからはじまっているのは、よく知られているところでしょう。ポール・ホワイトマンは、「アメリカ音楽とは何か」。その答えを出したかったんだそうですね。
それで、ポール・ホワイトマンは何をしたか。新聞にコンサートの予告を打った。1924年「ニューヨーク・トリビューン」1月4日付の新聞に。
これでジョージ・ガーシュインは、「アメリカ音楽とは何か」に答えを出さなくてはならなくなった。
1924年の1月。『ラプソディー・イン・ブルー』は、NYのガーシュインの自宅で、作曲。この時、編曲を手伝ったのが、ファーディ・グローフェ。ジョージ・ガーシュインはピアノで作曲し、それを各楽器ごとの楽譜にしたのが、ファーディ・グローフェ。
ファーディ・グローフェはほとんどガーシュイン宅に泊まりこんで総譜を作ったという。ガーシュインのお母さん、ローザは美味しいロシア式紅茶を淹れて、彼らを励ましたそうです。『ラプソディー・イン・ブルー』にはかすかにロシア紅茶の薫りがする、とまでは言いませんが。
1924年2月12日。NYの、「エオリアン・ホール」での演奏。この日はNYには珍しくない大雪の日で。大雪にもかかわらず、一流人が集まった。ストラヴィンスキー、ラフマニノフ、レオポルド・ストコフスキー………。銀行家の、オットー・カーン。出版人の、コンデ・ナスト………。
『ラプソディー・イン・ブルー』を指揮したのは、ポール・ホワイトマン。ポール・ホワイトマンは後に述懐しています。
「演奏中、涙が止まらなくなって。いったい、どうやって指揮をしたのか、おぼえていない………」。
『ラプソディー・イン・ブルー』は同じ年の6月にヴィクターで、録音。この『ラプソディー・イン・ブルー』のレコードは、1970年代に入って78回転のレコードが消滅するまで、生産が続けられたという。
ジョージ・ガーシュインが世を去ったのは、1937年7月11日のこと。
その翌年、1938年に刊行された小説が、『嘔吐』。もちろんジャン=ポール・サルトル。サルトルの出世作でもあります。『嘔吐』の中に。

「片手にシルクハットと手袋持ち、その手をパールグレーのズボンに添えている。私は一種の賛嘆の念を禁じ得なかった。」

これは主人公が出会った貿易商の、パコームという人物の姿。もしかして、パコーム氏が着ているのは、グレイ・モーニングではないでしょうか。
いつの日にか、グレイ・モーニングを着てみたいものですね。

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