花袋で、明治の文人といえば、田山花袋でしょうね。花の袋と書いて、花袋。
田山花袋の本名は、録弥。花袋はむろん、号名であります。柳亭種彦の『用捨箱』の中に、「はなぶくろ」の言葉があるのを見つけて、これだと、膝を打ったという。
田山を分ければ、田と山で、あとは「花」だろうと、考えていたらし。それで、「花袋」。もともとは花壜の意味であったとも。
明治二十五年、田山花袋が『国民新聞』に、『落花村』を書いた。このとき、はじめて「花袋」の号を用いています。
田山花袋と仲良しだったのが、島崎藤村。島崎藤村と田山花袋は、ほぼ同い年。それも仲良しの理由のひとつだったのでしょう。
大正二年、藤村、四十一歳のとき、洋行。巴里へ。この時、花袋は途中まで、藤村を見送ってもいます。
大正二年四月三日の夜。藤村は神戸から、「エルネスト・シモン号」で、発っているのです。神戸では、榮町六丁目の宿、「備後屋」に泊まって。
田山花袋には、『春雨の日に箱根まで』という随筆があります。この柱は、藤村を送る記になっているのです。この中に。
「玄關の三畳には、新しい鞄と、新しい帽子と、新しい外套と、新しい細い蝙蝠傘とが置いてあつた。外では、雨が降つたり止んだりしていた。」
これは神戸に行く前、鎌倉の友人宅に泊まった時の様子。もちろんすべて、藤村の旅支度を描いたもの。
島崎藤村の代表作に、『破戒』があります。『破戒』の中に。
「銀之助はがたがた靴の音をさせ乍ら、洋服の上衣を脱いで折釘へ懸けるやら、襟を取つて机の上に置くやら……………………。」
文中、「襟」の横には、「カラー」のルビが振ってあります。つまり銀之助は、ディタッチト・カラーのシャツを着ていたわけですね。
時には付け襟のシャツで、花袋の初版本を探しに行きたいものですね。