襖とフランネル

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襖は、日本独自の部屋の間仕切りですよね。
たとえば六畳間がふたつあったとして。その間を襖で仕切っておくと、開けはなつことも。それで、時と場合に応じて、六畳ふた部屋にも、十二畳一部屋にも使うことができるわけですね。
襖は、衾から来ているとの説も。衾は、平安時代の夜具でもあって。貴人がおやすみになる時の衝立でもあったらしい。
もとは、絹張りの襖。やがて略式としての「唐紙襖」も。中國渡来の紙を張ったので、「唐紙襖」と呼ばれたんだそうです。
襖の話が出てくる名随筆に、『侍従とパイプ』があります。
入江相政の随筆集。「侍従」とあるのは、ご自分のこと。
入江相政は、昭和九年に、昭和天皇の侍従に。それまでは、母校の
学習院で教壇に立っていたのですが。
入江相政は後に侍従次長となり、さらには侍従長となった人物。
もっとも長く、もっとも近く、昭和天皇に接したお方であるのは、間違いないでしょう。
入江相政著『侍従とパイプ』に襖の話が。

「…………主人公が夜中にふと目をさますと、二間半を四枚で仕切った大きな襖が、今スーッと開く。三分の二ほど開いて、また静かに閉まってしまった。」

入江相政は、こんなふうに書いています。実はこれ、志賀直哉の短篇、『襖』を紹介している場面なんですね。むかし入江相政は、志賀直哉の『襖』を読んで、いたく感心したらしいので。
この入江相政の、「襖の話」が出てくる随筆の章題が、「あどせおろとかも」になっているのです。「あどせろとかも」は、やや特殊な古語。

高麗錦 紐解きさけて ぬるがへに あどせろとかも あやにかなしき

『萬葉集』の古歌であります。
古語の「あどせろとかも」をもし現代語に直すなら、「どうすればいいの」に近いのかも知れませんが。
入江相政は、「あどせろとかも」の章のなかで、まさに「どうすればいいの」という話を書いているのですが。
入江相政が若い時分に読んで感嘆したという志賀直哉の『襖』は、
明治四十四年の発表。

「………二間半を四枚で仕切った大分大きな襖が今すーつと開く ー
どうしたんだろうとぼくは枕から首を浮かしてると……………………。」

志賀直哉は、こんなふうに書いています。
これは「僕」が十九歳の頃の話。ある年、温泉宿に泊まった時。たまたま「鈴」という十六歳くらいの少女と襖を隔てて寝ることに。
結局は「鈴」が襖を開けたのでしょうが。
どうして志賀直哉は『襖』を書いたのか。また、入江相政はどうしてそこまで想い深く読んだのか。おそらくは、人が久しく忘れているだろう「純愛」に触れているからではないでしょうか。
入江相政著『侍従とパイプ』には、「斎藤茂吉」の章もあります。
これは昭和二十七年に書かれた随筆なのですが。

「斎藤さんは白い縞のある紺背広で、頬髭はきれいにそろえられている。」

昭和二十二年に、昭和天皇は、東北の旅に。途中、蔵王の「村尾旅館」にお着きになって。午後八時から、斎藤茂吉と座談会。
その時、斎藤茂吉は「白い縞のある紺背広」だったと、入江相政は書いているのです。
勝手な想像ですが、チョーク・ストライプの、フランネル・スーツだったのではないでしょうか。
戦後間もない時代に、チョーク・ストライプのフランネル・スーツはなかったでしょうから、おそらく戦前に作ったものかと思われます。
でも、斎藤茂吉としては、陛下の前に出るわけですから、一張羅であったに違いありません。
斎藤茂吉は、1922年に、ウイーンに留学。その後、ドイツにも学んでいます。
想像を逞しくすれば、若き日にウイーンで仕立てたスーツであった可能性もあるでしょう。
古典的なスーツは、時代を超えて、生き続けるものです。いや、時に磨かれてますます美しくなるものであります。
そのためには少なくとも三十年くらいは「現役」のスーツでなくてはなりません。佳きスーツとは、そういうものなのです。
どなたか1920年代の、ウイーンふうのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。
「茂吉」と名づけて永く愛用してのです。これまた、スーツへの純愛なのでしょうが。

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