ハンガリーとパッド

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ハンガリーは、ヨオロッパの、国の名前ですよね。
ハンガリーは、ワインの国でもあります。言うまでもなく、「トカイ・ワイン」の産地。
トカイ・ワインは甘口ワイン。もう少し正確には、「貴腐ワイン」であります。
貴腐とは、「高貴なる腐食」。葡萄の表面の特殊なカビが。このカビのために葡萄の中の糖度が高められて。得も言われぬ高貴な香りが。これが貴腐ワインであり、その代表のひとつが、トカイ・ワインなのです。
ハンガリーはまた、「フォアグラ」の産地で。いわゆる「鴨ネギ」状態のお国でもあるわけですね。
ハンガリーの首都は、ブダペスト。ブダペストで想い出すのが、キャパでしょう。
ロバート・キャパは、1913年10月22日。ハンガリーのブタペストに生まれています。お母さんの、ユリアンナは洋裁店を開いていたそうです。
ロバート・キャパが、巴里に出たのは1933年のこと。ここで偶然出会うのが、後のゲルダ・タロー。
ゲルダ・タローがどのような人物だったのかは、イルメ・シャーバー著『ゲルダ』に詳しく書かれています。
ゲルダ・タローは、1910年8月1日。ドイツのシュトゥッガルトに生まれています。
本名は、ゲルタ・ポホリレ。ただし、一般には、ゲルダ」。これはG ert aがG e rd a と誤解された結果なんだそうです。
余談ですが。本名のフリードマン・エンドレに、「ロバート・キャパ」のビジネス・ネイムをつけたのは、ゲルタ・ポホリレ。自分の「ゲルタ・タロー」も、自分で。
ついでながら。キャパにスーツを着るように勧めたのも、ゲルタ・タローだったという。
ゲルダとキャパとが親しくなったのは、1935年7月15日頃のことだと考えられています。
カンヌでのヴァカンスの時に。もう少し正確に申しますと。カンヌ沖の、サント・マルグリット島に於いて。
1935年7月15日頃。偶然とは恐ろしいもので。ゲルダとキャパは、日本人の
川添浩史と、岡本太郎とも出会っているのです。
ゲルダ・タローのビジネス・ネイムは、岡本太郎からのものという説も根強くあるのですが。
カンヌから巴里に帰ってからも、川添浩史とキャパ&ゲルダの交際は続いたらしい。もう一歩踏みこんで申しますと。川添浩史がキャパとゲルダの援助をすることもあったらしいのですが。
ゲルダ・タローはキャパの影響から、ごく自然に、戦場写真家に。それも勇敢な戦場写真家に。誰よりも一歩前に出ることを厭わなかった人物だったのです。それが戦場写真家として良い写真を撮るための条件でもあったのですが。その一方で、ゲルダ・タローの死期を早める結果ともなったわけでありますが。
当時、ゲルダは、「レフレックス・コレレ」の写真機を使っていて。6×6サイズのフィルムの。
ロバート・キャパのあまりにも有名な写真に、『崩れ落ちる兵士』があります。が、この『崩れ落ちる兵士』は、ゲルダ・タローが写したのではないか。そんな説もあるようです。
まあ、謎は謎として、そっとしておきましょうか。

ハンガリーが出てくる小説に、『ブダペスト』があります。2003年に、シコ・ブアルキが発表した物語。

「どんなに敏捷な通訳にもそのハンガリー語を同時通訳することができなかったのだ。」

まあ、題が『ブダペスト』ですから、ハンガリーが出てくるのも当然ではありましょうが。
また、『ブダペスト』には、こんな描写も出てきます。

「………カラー・シャツに肩パット入りの男性用の上着を着用していた。」

これはTVのニュースキャスター、「ヴァンダ」の着こなし。
訳者、武田千香は、「肩パット」と表記しています。
ふだんの会話では、「肩パット」というのは珍しくはないですからね。
パッド p ad は、正しくは「パッド」。ショルダー・パッド。
男の理想だけを申しますと。パッドが必要ないくらいの肩線の持ち主であることですが。なかなかそうもいかないのが、現実であります。
長沢 節先生は、「自家製肩パッド」の愛用者でありました。ご自分の肩の上に、お手製のパッドを付けていました。これもまた、「肩パッドの要らない男」でもあったのでしょうが。
いずれにしても。肩線はすべてのスーツの出発点ですから、私たちが考えている以上に、大切な部分なのですね。
どなたか美しいコンケイヴ・ショルダーのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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