縁と襟

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縁は、人と人とのつながりのことですよね。
縁と書いて、「えん」とも、「えにし」とも訓みます。「縁の糸」とも、「縁あれば千里」ともいうではありませんか。
「縁の糸」は「えにし」と訓み、「縁あれば千里」は「えん」と訓むんだそうですが。

「夫ゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。即ち衣食に縁がない。」

福澤諭吉は、『福翁自伝』の中に、そのように書いています。
ここでの「緒方」は、緒方洪庵の「適塾」を指していること、いうまでもないでしょう。
安政二年、諭吉は「適塾」に入っています。「適塾」は幕末、大坂にあった緒方洪庵の塾のことです。今なら東大にも匹敵する選良が学ぶ学校だったという。
諭吉は『福翁自伝』の中で、「適塾」時代を面白おかしくふりかえっていますが、その勉強ぶりには壮絶なものがあったらしい。全国から選良が集まっているので、互いに競って寝る間も惜しんで学んだそうです。
では「適塾」での勉強はどんなふうだったのか。オランダ語の原書を、皆の前で、朗読。朗読するのみならず、筆写。筆写するのに使ったのが、「鵞筆」。
当時、大坂の道修町には薬問屋が並んでいて、ここに鳥の羽根が。この鳥の羽根を買って、小刀で削って、ペン先に。インクはもちろん無いので、墨を用いたという。
縁が出てくる古書に、『梁塵秘抄』があります。平安時代、後白河法皇によって編まれたと考えられています。梁塵秘抄と書いて、「りょうじんひしょう」と訓みます。

「………五濁我等も捨てずして、結縁久しく説き述べて、仏の道にぞ入れ給ふ。」

「縁」がもちろん古くから用いられていたことが理解できるでしょう。
また、『梁塵秘抄』には、こんな文章も出てきます。

「此の頃都に流行る物、肩当、腰当、烏帽子止、襟の堅つ型、錆烏帽子、布打の下の袴、四幅の指貫、」

『梁塵秘抄』は、1180年頃の成立だと考えられていますから、「襟」の言い方は、その時代にすでにあったものでしょうね。
襟を英語にいたしますと、「ラペル 」l ap el でしょうか。
ラペル が「ラップ」l a p から来ているのは、明明白白でありましょう。あえて日本語にするなら、「小さな重なり」でしょうね。

「………硬く、幅広い、緑の絹地のラペル が左右についている。」

1789年に、ミセス・ピオッツイが書いた『フランス、イタリア、ドイツへの旅』に、そのように出ています。
「ラペル 」としては、わりあい早く例かと思われます。
へスター・リンチ・ピオッツイは、1741年に英國に生まれた作家。1763年に、
サミュエル・ジョンソンの友人だった、ヘンリー・スレイルと結婚した女性。
それはともかく、1780年代には、「ラペル 」の言葉が用いられていたものと思われます。
カラー c o ll or はカラー、ラペル はラペル。もともと別々のものでありました。
立襟の前身を開いて倒した時、「ラペル 」が生まれたのです。これで、小さなラペル がクラッシックだということがお分かりでしょう。
どなたか「小さな重なり」の美しい上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

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