高峰と立襟

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高峰で、女優でといえば、すぐにおふたりを想い浮かべますよね。
高峰三枝子と、高峰秀子。高峰三枝子は、本名。高峰秀子は、藝名。旧姓は平山秀子。
松山善三と結婚してからは、本名、松山秀子。愛称は、「デコちゃん」。
昭和四年、五歳で初出演というのですから、芸歴の長さは、記録的でありましょう。
今なお印象に遺っているのは、『二十四の瞳』。大石先生役の高峰秀子でしょうか。
原作は、壷井 榮。そういえば、高峰秀子、結構文藝物に出ていらっしゃるという印象があるのですが。
高峰秀子は貴婦人型の取り澄ました美人型ではなくて。誰からも愛されるおおらかさがあったように思えるのですが。
高峰秀子の、贔屓だったお方に、新村 出が。もちろん、「しんむら・いづる」と訓みます。ふだんからお世話になる『広辞苑』の編者であります。
昭和二十八年に、新村 出は、はじめて「映画」なるものを、観た。森 鷗外原作の、
『雁』を。
九月四日、京都三条河原町の、「東宝公楽映画館」で。この『雁』に出ていた高峰秀子に、
それはそれは。
新村 出はその日の日記に、こう書いています。

………高峰秀子の美顔、表情、妙技に感服す……………………。

その時、七十七歳だった新村 出は、二十九歳の高峰に………。
これは新村 恭著『広辞苑はなぜ生まれたか』に出ている話なのですが。新村 恭は、
新村 出の孫にあたる人物。新村 猛がお父さんで、新村 出がお爺さんということになります。
新村 出はたしかに『広辞苑』ではあるのですが。実は今現在の私たちのおしゃれにも、大いに関係があるのです。

「日本へモールと云ふ服地の入つて来たのはこのモール帝国の織物で、それをモール織と云つた。」

大正十一年に、新村 出が発表した『近世輸入服飾品と其名称』には、そのように出ています。
明治二十年代に写された新村 出の写真が遺っています。その写真を写したお方が、
徳川慶喜。それを見る限り、白い立襟の制服姿。当時の「一高」の夏のユニフォームでしょうか。新村 出は、上のボタン二つだけを留めて着ています。ボタンは、金ボタン。
どなたか白い立襟の上着を仕立てて頂けませんでしょうか。

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