愛は、ラヴのことですよね。ラヴは、l a v e 。
ラヴは、明治の頃、すでに日本語に取り入れられていたみたいですね。たとえば、坪内逍遙は、明治十九年に発表した『當世書生氣質』のなかに、「ラーブ」と書いたいます。どうも明治の時代には、「ラーブ」が主だったようですね。
「愛は大根おろし」。そんな説があるらしい。丸谷才一の随筆、『大根おろし』に出てくる話なのですが。
日本画家の、川崎春彦さんについて。川崎画伯は、大根おろしが大の好物。画室から自宅に戻ると、寝る前に、寝酒。寝酒のつまみが、大根おろし。大根おろしの中に、シラス、カマボコなどを入れて、混ぜて、召上がる。
画伯がお戻りになると、奥様が。
「用意してございますから………………。お先にやすませていただきます………………。」
これはよほど「愛」がなくては言えない言葉ではないか、と。まして、奥様の仕事は、ピアニストなんですから。
「愛は大根おろし」。うーん、一理ありますねえ。
そういえば。むかし、総理だった、田中角栄。このお方の全盛期。毎夜、宴会、宴会、また宴会。で、自宅に帰ると、一膳を所望したという。それは飯の上に鮭缶開けて、鮭と同量の大根おろしをのせて、かき混ぜて。いやあ、美味そうですねえ。
まあ、そんなふうに大根おろしは、うまい。でも、それをおろすほうでは、「愛」なくてはできないことなのでしょう。
丸谷才一ご自身は、天麩羅は天麩羅屋に食べに行く、とお書きになっています。たしかに天麩羅は、天麩羅屋で食べたほうが美味しいものでしょう。少なくとも家庭で、「大根おろしのお代わり………」なんて言わなくてもすみますからね。
丸谷才一著『好きな背広』の「前書」に、こんなことが出ています。
「合着なら合着、夏服なら夏服の背広を何十着も持つてゐる衣裳道楽の男でも、取つかへ引つかへ全部を着るわけではないらしい。」
寝しなの大根おろしと同じように。好きな背広はついつい同じものに袖を通す結果になりますよね。
それにしても、「合着」の言葉、あまり使われなくなりましたね。
「衣裳道楽」も同じこと。でも、私としては「衣裳道楽」は、もっともっとふえてもらいたいものですが。
つまり、さらにさらに、服に「愛」を感じて欲しいのであります。