城は、キャッスルのことですよね。フランスなら、シャトオでしょうか。
城は、戦さのための護りの豪邸ですから、世界中のいろんな所にあるのでしょう。
大阪には、大阪城があります。大阪城は今も昔も、大阪の名所になっていること、申すまでもありません。
昭和十六年十一月の半ば。大阪城に行った一人に、井伏鱒二がいます。この話は、『文士の風貌』と題された随筆集に出ているのですが。
井伏鱒二はなぜ、昭和十六年十一月に、大阪城に行ったのか。招集令状。つまり、兵隊に行くので、大阪城に集まりなさい、との令状が来たので。その時の条件のひとつに。
「軍刀持参」
と、あったそうですね。
「たいていの人はジャンパーまたは背廣を着て軍刀を紫の袋に入れて持つてゐたが、私は釣師の服装をして細身の軍刀を入れた竿袋を持つてゐた。」
そのように書いています。
この招集令状で会ったのが、同じ文士の、海音寺潮五郎。
新兵たちが集まってところで、老練の古兵が、訓示。
「お前たちの命は、今からこの俺が預かった。ぐずぐず云う者はぶった切るぞ………………………」。この時、海音寺潮五郎、大きな声で。
「ぶった切って見ろ」
これで、一堂騒然となった、とも書いています。
どうも文士には文士同士の暗黙の了解があって。「大いに書き、大いに書かれることは承知の上」という感じがします。
井伏鱒二はまた、今日出海のことに触れて。
「今君の戀愛の相手は或る若手俳優と………………」。
若き日の今日出海が、後の、吾妻徳穂に戀した様子を、詳しく書いています。
今日出海から連想するお方に、今和次郎が。私たちの大先輩であります。考古学ならぬ「考現学」を提唱して、「現在の服装」の研究に没頭した学者なのです。
今和次郎に、『ジャンパーを着て四十年』の著書があります。このことからも窺えるように、今和次郎は、主義として、ジャンパーを着通した。教壇に立つ時も、ジャンパー。冠婚葬祭にも、ジャンパー。主義を持って着る。これは尊敬すべきでしょう。
私たちがスーツを着るにも、自分なりの「主義」を持っているのか、どうか。大きな違いだと思います。
でも、古城を訪ねるには、ジャンパーということもあるでしょうがね。