最高級紳士服の聖地
サヴィル・ロウは英国、ロンドン、メイフェア地区の地名である。実際に訪ねてみると、一本のストリートでもある。ここには優れたテイラーが軒を連ねているので、「サヴィル・ロウ」は最高級紳士服の聖地ともされるのだ。
サヴィル・ロウがサヴィル・ロウとして世界に評価されるのは、その技術力だけではない。むしろその誇り高き精神性であろう。たとえばサヴィル・ロウに行って、上品ならざる服を仕立てることは不可能である。ここでは悪趣味な服は作ろうにも作れない。黙って立って採寸さえしてもらえば、自然に世界中どこに出しても恥ずかしくない服が完成される。少しものの分かった人が見ると、「それはどちらでお仕立てになったものですか?」と問わずにはいられない服となる。このような例は世界でも稀なのではないか。
その誇り高きテイラーがわずか数百メートルの範囲に蝟集していることも、また稀である。が、誇り高きテイラーは必ずしもサヴィル・ロウに位置しているわけでもない。そのような場合、「オフ・サヴィル・ロウ」という。場所こそサヴィル・ロウではないが、志はサヴィル・ロウにある。そのようなテイラーを「オフ・サヴィル・ロウ」と呼ぶのである。
十八世紀のはじめ、この辺り一帯は第三代バーリントン伯爵の領地であった。そして1710年代に整備された時、「サヴィル・ストリート」と名づけられた。これはバーリントン伯爵の奥方、レディ・ドロシー・サヴィルの名前に因んだものである。サヴィル・ストリートが、「サヴィル・ロウ」と名前を変えるのは、1892年のことだ。
「この貴族趣味の建設計画の家並みはすべて、優雅に均整を保っており、名だたるジェントリーと貴族が入居した。そして今でも当時の居住者の名前が保存されている。 ( 中略 ) サヴィル・ロウの家並みはジョージ二世の時代のもので基礎がしっかりし、厳密にできている。」
ハーディ・エイミス著『イギリスの紳士服』 ( 1994年刊 ) には、そのように説明されている。つまりサヴィル・ロウの建物自体には三百年以上の歴史があるわけだ。と同時に、当時のサヴィル・ロウが純然たる高級住宅地であったことも分かるだろう。
ひとつの例として挙げるなら、ロード・ジョージ・カヴェンディッシュの邸宅もまた、サヴィル・ロウ一番地にあった。ある時、カヴェンディッシュは時の人、ボー・ブランメルを自邸での夕食に招いたことがあるという。
その後、サヴィル・ロウ一番地には、「王立地理学会」が置かれていたこともある。さらにその後の1912年、「ギーヴス&ホークス」がこの場所に店を開いたのだ。ただし創業自体は1785年に遡る。創業者、トーマス・ホークスはヴェルヴェット・キャップ・メーカーであったという。
アイルランド生まれの劇作家、リチャード・シェリダンの邸宅は、サヴィル・ロウ十四番地にあった。1813年から1816年まで、この地に住んだ。というのは1816年に、六十五歳で世を去っているからである。今、サヴィル・ロウ十四番地は、「ハーディ・エイミス」の店になっている。
サヴィル・ロウでの古いテイラーということなら、「ヘンリー・プール」であろう。ヘンリー・プールは1846年にサヴィル・ロウ十五番地にテイラーを開業している。ただし創業そのものは、1806年のことと伝えられている。最初はリネン商で、その後に軍服の仕立てに転じている。日本人の顧客としては白洲次郎がヘンリー・プールで服を仕立てている。
1860年にヘンリー・プールは、英国皇太子の軍服を手がけている。英国皇太子とは、後のエドワード七世のことである。
「サヴィル・ロウ」が世界に冠たる最高級紳士服の聖地とされるようになったのは、1860年代のことであろう。それは奇しくもラウンジ・スーツの一般化と軌を一にしているのである。
1865年、作家のチャールズ・ディケンズは一着のフロック・コートを仕立てている。ディケンズは着ることに一家言あった人で、なにかと注文をつけたことでもあろう。このディケンズのフロック・コートを担当したのも、ヘンリー・プールであったのだ。
サヴィル・ロウにはサヴィル・ロウの言葉があって、たとえば「ピンクト」 pinked 。これはまた、「ア・ピンクト・ジョブ」とも言われる。直訳すれば「ピンク仕事」でもあろうか。しかし実際には、「特別な顧客のために特別な配慮を必要とする服」の意味なのだ。このような「サヴィル・ロウ用語」は決して少なくない。サヴィル・ロウは誇り高き「紳士服の村」でもあって、そこに仲間言葉が生まれるのも、当然であろう。
1930年代からすでにサヴィル・ロウで服を仕立てていたハリウッド・スターとしては、フレッド・アステアを想い浮かべるべきである。一例ではあるが、1935年の映画『トップハット』のイヴニング・コートなどは、「キルガー&フレンチ」が仕立てたものである。
すでにふれたハーディ・エイミスがサヴィル・ロウ十四番地に店を開いたのは、1946年のことである。それは建物の正面に、バーリントン伯爵時代の装飾がまだ遺っていたからであるという。ただしハーディ・エイミスは最初、婦人服で、やがて紳士服をも扱うようになったもの。これもまた、サヴィル・ロウの空気に影響されたものであろう。
「サヴィルロー仕立てのスーツ、磨きあげたブローグは英国靴の最高峰に位置するロブのものに違いない。」
フリーマントル著『ホームズ二世のロシア秘録』 ( 2005年刊 ) の一文である。しかし「サヴィル・ロウ」が最高級紳士服の代名詞として使われている例は、枚挙に暇がないこと、いうまでもない。