討論は、話合いのことですよね。ただし、おたがいの意見が異なる場合に。考えていることが同じなら、「討論」としては面白くないでしょう。
人間が違い、立場が違う者同士が意見を交換する場合、「討論」となります。そしてまた、
「闘論」とも書くんだそうです。
「此仏人の馬関に来たり、闘論せしは……………。」
明治十四年に完成した『近世紀聞』の一節にも、そのように出ています。ただし時代背景は、慶應二年におかれているのですが。
闘論なのか、討論なのか。1960年代に有名だった「討論」に、『三島由紀夫vs東大全共闘』があります。
1969年5月13日のこと。この日、三島由紀夫は「東大教養学部900番教室」に出向いています。当時は、「全学連」の時代でしたからね。
5月13日。三島由紀夫はどんな思いで東大に出向いたのか。
「………男子一度門を出ずれば七人の敵ありというんで、きょうは七人じゃきかないようで、大変な気概を持って参りました。」
三島由紀夫は討論に入る前の口上で、こんなふうに語っています。もちろん三島由紀夫としては冗談のつもりで口にしたのでしょうが。実際のところそのような心境だったでしょう。
その時代の空気からすれば、地雷原を素足で歩く行為にも似ていたでしょうから。
「概して私の全共闘訪問は愉快な経験であつた。」
三島由紀夫は『討論を終えて』の中に、そのように語っています。
三島由紀夫に会った作家に、野坂昭如がいるらしいのですが。
1950年代のことかと思われるのですが。少なくとも野坂昭如が作家デヴューする前の話として。その時代の野坂昭如は、「ブランズウイック」という高級クラブで、ボーイのアルバイト。住込で、月給8000円はまたとない高給だったので。
その時、客としてやって来たのが、三島由紀夫。席に座った三島由紀夫が煙草を取り出して。野坂昭如はボーイなので、ライターで火をつけなくてはならない。その時の野坂昭如の手は震えて、火がつけられなかったという。
これが野坂昭如にとっての、三島由紀夫初対面。野坂昭如はすでに文学青年で、三島由紀夫の小説を読んでいたので。
昭和四十七年十月十二日。石原慎太郎との「討論」で、そのように語っています。
『石原慎太郎=野坂昭如 討論』は、昭和四十七年四月十三日にはじまり、昭和四十九年七月二十六日に終えています。
では、石原慎太郎の三島由紀夫初対面はいつだったのか。1950年代末ではなかったでしょうか。
「文藝春秋」の依頼で、三島由紀夫と石原慎太郎が並んでいる写真が欲しい、と。それで紀尾井町の文藝春秋に行ったのが、三島由紀夫にあった最初だと、『石原慎太郎=野坂昭如 討論』の中で語っています。
「………とても仕立てのいいトレンチコートからスーツまでウグイス色に統一した服を着ていた。そして、同色のキッドの手袋をしてね。」
この時の撮影は、社屋のベランダで。三島由紀夫はウグイス色のトレンチコートが汚れるのをほとんど気にしなかったという。
トレンチ・コオトはたいていオフ・ホワイトからベージュを経て、ライト・ブラウンに至るまでの色が主流でしょう。汚れが目立ちにくい色として。
では実際の1900年代のトレンチ・コオトはどうだったのか。初期のトレンチ・コオトは多くウール・ギャバディンで、戦場で汚れたなら、特別軍用便で本国に送り返されて。それぞれのバーバリーやアクアスキュータムへ。会社では洗濯し、再防水し、ふたたび特別便で戦線に送り返したのです。
どなたか1900年代のトレンチ・コオトを再現して頂けませんでしょうか。