マッシュポテトとマッキノウ

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マッシュポテトは、よく食べますよね。まず第一に歯ざわりが心地よいではありませんか。
マッシュポテト。食べるというよりも、メイン料理の付録という感じでもあります。ビーフステーキがあって、その横にマッシュポテトが鎮座ましましているとか。
これはたぶん肉だけでなく、野菜も食べなさいね、という意味だろうと思います。
マッシュポテトがお好きだった人に、古川ロッパがいます。古川ロッパは、戦前に人気のあった喜劇俳優ですね。

「渡辺篤を誘ひ、大雅で専ら食ふ。マッシュポテトがうまし。」

昭和十五年三月三日の『古川ロッパ昭和日記』に、そのように出ています。あれこれ召しあがった後で、「マッシュポテトがうまし。」と、おっしゃるのですから、お嫌いではなかったはずです。

「ドイツ料理の方の、ポーク骨付(リブ)煮込みといふのをココロ、マッシュド・ポテトが山と附く、サワクラウトも附いて、これが美味し。」

昭和二十七年十二月三十一日の『日記』にも、そのように書いてあります。
昭和二十七年十二月三十一日。私の呼んだ『古川ロッパ昭和日記』は、この日が最後になっています。
私の識るかぎりでは、『古川ロッパ昭和日記』は、昭和九年一月一日の月曜日からはじまっています。それで、昭和二十七年の十二月三十一日まで。ざっと十八年間ということになるでしょうか。
『古川ロッパ昭和日記』のひとつの特徴は、休みのないこと。毎日の日記。つまり、膨大な分量ということになります。
『古川ロッパ昭和日記』のもうひとつの特色。その大半が「食日記」であることでしょう。
ただし、『古川ロッパ昭和日記』の最初から食日記だったわけではありません。昭和九年頃の『日記』を読みますと、楽屋落ちとでもいった内容がほとんどになっているのです。
つまり古川ロッパ自身は最初、『日記』の発表意思はなかったと思われます。書いているうちに「食」話が多くなり、これなら発表も差し支えなしと、判断するようになったのではないでしょうか。

戦争末期、『古川ロッパ昭和日記』どうしたのか。古川ロッパは戦争が激しくなって、日記だけを妻の自家に「疎開」させています。売れっ子の自分自身は東京を動けないけれど。
少なくとも「疎開」させるくらいには、ロッパは「日記」を大切にしていたと、考えて良いでしょう。

「ポークカツを食ひ、アカシアへ行くと、根岸・森繁・三木のり平とゐる。こゝで、ボンからチキン・コキールとサラダをとって食ひ、森繁・三木と出て、小笹ずしで、あなごその他大いに食ふ。そぼろ巻きうまし。森繁の運転するルノオで、帰宅、十二時すぎか。」

昭和二十七年九月二十八日(日曜日)の『日記』には、そのように出ています。
しかしまあ、よく召しあがっていますねえ!

マッシュポテトが出てくる短篇に、『フランシス・マカンバーの短い幸福な生涯』があります。ヘミングウェイが、1936年に発表したアフリカでの物語。

「彼はエランドのステーキをナイフで切り、マッシュ・ポテトと肉汁にまぶしたニンジンを、肉に突き刺したフォークの背にのせた。」

もちろん、ハンティング中の、野外での食事として
また、ヘミングウェイが、1924年に発表した短篇に、『三日吹く風』があります。この中に。

「彼は厚手の格子柄の上着のポケットにリンゴを入れた。」

ここでの「彼」もまた「ニック」になっているのですが。ヘミングウェイの短篇中の「ニック」は、ヘミングウェイの分身だと考えてよいでしょう。
「厚手の格子柄の上着」。私には、マッキノウだとしか考えることが出来ません。
「マッキノウ」mackinaw は、もともとマッキノウ・ブランケットで仕立てたダブル前の半外套ことです。
どなたか1920年代のマッキノウを復刻して頂けませんでしょうか。

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