瀬戸内と仙台平

瀬戸内は、瀬戸内海のことですよね。
でも、いったいどこからどこまでが、瀬戸内なのか。よくわからないところがあります。
讃岐に生まれ育った私にも定かではありません。
でも、それで良いのでしょう。
皆それぞれに、「ここは瀬戸内」と思っていれば。

「牛窓の港も、この宿のように古びた街だ。」

奈良本辰也は、『瀬戸内の旅情』と題する紀行文に、そのように書いてあります。
奈良本辰也は大正二年に、山口県の大島に生まれているお方なのですが。
その奈良本辰也もまた、「瀬戸内生まれ」と感じて板らしい。
瀬戸内はまた人の名前にもありますね。
たとえば、瀬戸内寂聴だとか。
瀬戸内寂聴は大正十一年五月十五日に、徳島に生まれています。本名は、三谷晴美。実家は大きな仏壇屋だったという。
では、瀬戸内寂聴は筆名だったのか。いえいえ、そうではありません。
お父さんの、三谷豊吉の、いろんな事情から、姓が「瀬戸内」に変ったので。昭和四年頃の話なのですが。
瀬戸内寂聴は以前、「瀬戸内晴美」を名乗っていました。これは本名だったわけですね。
瀬戸内晴美は、小学校、中学校、女学校を通じて、開校以来の秀才だったという。
少なくともありあまる才能に恵まれて生まれてきたお方だったに違いありません。
また、瀬戸内晴美は恋愛の天才でもありました。瀬戸内晴美から恋愛を抜いたら話すことが少なくなってしまう。こんなふうに思うのは私だけではないでしょう。

「それは恋愛にしても、文学に対しても、信仰に対しても、一向専心に生き抜いたのを僕は才女と言いたいのだ。」

今 東光は『瀬戸内晴美君を見守る』という随筆の中に、そのように書いています。
昭和四十八年十一月十四日。今 東光によって剃髪して、瀬戸内寂聴になったのは、ご存じの通り。
仏教における得度は神聖なもので。どの寺でも躊躇した。それで最後に引き受けてくれたのが、「中尊寺」の管長、今 東光だったのですね。
瀬戸内寂聴には、『あきらめない人生』と題する随筆集があります。この中に『虫干し』の章がありまして。

「父の五つの紋の紋付や、仙台平の袴、母の黒留袖、訪問着、」

そんな虫干しの様子が描かれています。
「仙台平」は、袴地。
とくに袴地と決められているわけではありませんが。袴に最適の絹地であること。昔からの常識になっています。
畳の上で立っても座っても皺にならない。座った姿勢から立ちあがっても、袴の線が美しいまま保たれる。そんな生地は仙台平以外にないのです。
昔、仙台には、「甲田栄佑」という仙台平の名人がいました。当時の「人間国宝」だった人物。仙台平は、特殊な織り方が求められるから。世界に誇る日本の伝統技。
どなたか仙台平の上着を仕立てて頂けませんでしょうか。