美脚衣
ジーパンはジーンズのことである。ジーンズはジーン・パンツの略であろうか。時にブルー・ジーンズと呼ばれることもある。
今、ごく一般には「ジーンズ」という。「ジーパン」は古語ではないが、古語に近い。明らかにデニムのパンツを「ジーン・パンツ」というのも不思議ではあるが、「ジーパン」を Gパンとするのも奇妙である。
それは一説に「GIパンツ」から来たものとも。
1960年の映画に『GI ブルース』というのがあった。エルヴィス・プレスリーの主演で、その主題歌も流行ったものだ。プレスリーはほぼ全編、チノ・クロスのシャツとパンツとで登場する。もし「GIパンツ」といえば、むしろチノ・パンツを想起することが多いのではないか。
それはともかく「GIパンツ」すなわち「ジーパン」とは考えにくい。そして「ジーパン」には少なからぬ謎が潜んでいる。
そもそも1873年に今の「ジーパン」が生まれた時、「ウエストハイ・オーヴァーオールズ」が商品名であった。リーヴァイ・ストラウス自身、ジーンズにあまり良い印象を持っていなかったからである。
当時すでに「ケンタッキー・ジーンズ」という、安い作業ズボンがあって、それと混同されたくなかったのである。リーヴァイ・ストラウス社が公式に「ジーンズ」の名称を用いるのは、1947年のことである。
それ以前のアメリカ人は、「リーヴァイズ」とか、「ダンガリーズ」と呼んだものだ。1947年にリーヴァイ・ストラウス社は、「オーセンティック・ウエスタン・ジーンズ」を発表。これがリーヴァイスでの正式な「ジーンズ」の使用となったのである。
1947年の平均的アメリカ人にとっての「リーヴァイズ」、「ダンガリーズ」は、純然たる労働着であった。その労働着である「ダンガリーズ」がはじめて舞台衣裳となったのが、『欲望という名の電車』なのだ。
1947年12月3日、NY、ブロードウェイ、「バリモア劇場」において『欲望という名の電車』が幕を開けたのである。
『欲望という名の電車』の原作は、テネシー・ウイリアムズ、エリア・カザン演出、マーロン・ブランド主演の演劇であったこと、言うまでもない。
「仕立て屋にジーンズを切って細くさせ、第二の皮膚のようにブランドの身体にぴったり合うようにした。」
パトリシア・ボズワース著田辺千景訳『マーロン・ブランド』 (2004年刊 ) にはそのように出ている。これは衣裳デザイナー、ルシンダ・バラードの発案であった。テネシー・ウイリアムズの戯曲にはジーンズとは明記されていないからである。
『欲望という名の電車』は好評につき、1951年に映画化されて、スクリーンの上にもジーンズが登場することになる。ただしそれがただちに一般化したわけではない。
「ハーバードの教え子たちは、教室には背広姿でやってきたもので、ジーンズを着て来るものなどと誰も考えなかった。」
板坂 元著『上から下への流行、下から上への流行』 ( 『ブック・オブ・デニム』所収 ) にはそのように書かれている。これは1957年のハーヴァード大学の生徒の様子である。また当時彼らがそれを「ダンガリーズ」と呼んでいたことにもふれている。ハーヴァードの学生は「ダンガリーズ」で通学しようとは思ってもみなかったのだ。
では、日本ではどうであったのか。
「ありとあらゆるものを売っている闇市でもアメリカ産のジーンズなど売っている店はありませんでした。仮に売っていたとしても、これがジーンズというものだと分かる日本人はいませんでした。」
永 六輔著『スティーブからの贈物』 ( 『ブック・オブ・デニム』所収 )の一文である。昭和二十三年 ( 1948年 ) 頃の話。つまり『欲望という名の電車』公開の翌年あたりのことだ。著者はどうしても「それ」が穿きたくて、友人で、GIの、スティーブ・中川から譲ってもらうのだ。
戦後の日本人として永 六輔ははじめてジーパンを穿いたひとりであろう。ほぼ同じ時期に、歌手の小坂一也がいた。小坂一也は「シアーズ・ローバック」のカタログを見てそれを取り寄せたという。
今もある御徒町、いわゆるアメ横の「マルセル」がジーパンを扱うようになったのは、昭和二十七年のことである。昭和二十七年の『装苑』には、「ジムパンツ」の表現が出ている。「ジーパン」はまだ普及していなかったのだ。
昭和三十二年の日活映画『海の野郎ども』の中で、主演の石原裕次郎はジーパンを穿いている。いや、石原裕次郎は昭和三十一年頃から私服としもジーパンを穿いていたのだが。それはともかく石原裕次郎が穿いていたのは紛れもなく「ジーパン」であったのだ。
「洋袴は濃灰色のジインパンツである。」
森茉莉著『恋人たちの森』( 昭和三十六年刊 ) の一文。これはパウロという若い青年の自慢の服装として描かれている。ごらんの通り「ジインパンツ」になっている。
「ジーパンが今、若い人たちの間で大流行しています。」
昭和三十七年『中日新聞』三月十七日付の記事の一節。こうしてジーパンはやっと市民権を得ることに成功したのである。