焼鳥と上着

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焼鳥は美味しいもんですよね。
江戸の頃にも、「焼鳥」はあったんだそうです。もっとも焼鳥は焼鳥でも、雀。雀を焼きまして。神社仏閣の参道なんかで売ったという。
今、私たちが想い浮かべる「焼鳥」は。大正時代にはじまったんだそうですね。一説に、大正十二年のこととか。
大正十二年。日本橋、室町にあった「髯の平野」がはじめた。ただしこれは乙で、粋な、高級料理だったそうです。珍味を好む食通が食べるものであったという。
血肝、砂肝、白玉、心臓、皮身、卵の、六つの部類に分けて。それぞれ六つの味付けで焼いたんだそうですが。
詩人と焼鳥はなにか関係があるのか、どうか。草野心平は一時期、焼鳥屋を開いています。さすが詩人だけあって。焼鳥屋の店の名前が、「火の車」。草野心平の焼鳥は年期が入っていまして。草野心平、戦前は中国にいて。中国でも焼鳥屋をやったことがあるんだそうですね。
「火の車」もそうなんですが。草野心平は名前のつけ方がおじょうず。以前、バアを開いていたことがあって。バアの名前が、「学校」。まあ、バアは夜の学校ですからねえ。
その草野心平に、『居酒屋でのエチケット』という随筆があって。この中に。

「右コ左ベンしないこと、これが私の考える居酒屋でのエチケットの第一条だ。」

そんなふうに書いています。ところで草野心平自身はどんな恰好がお好きだったのか。

「小物類はいうに及ばず、カメラだって本だって、背中にある大きなポケットには、ビール瓶だって何本も突っ込めた。目のつんだ木綿地のカジュアルなその服の機能的で斬新なデザインはむしろ今日的で……」

草野心平の長女、草野 雷は『心平共学圏』の中で、そう書いています。
草野心平は、中国に住んでいる時。ポケットがたくさんの上着を特別に作らせていたんだそうです。
なにかお気に入りの上着で。美味しい焼鳥を食べに行きたいものですね。

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