ラフマニノフとモカシン

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ラフマニノフはもちろん、セルゲイ・ラフマニノフですよね。1873年、ロシアに生まれた音楽家。セルゲイ・ヴァシリエヴィッチ・ラフマニノフ。
そういえば、同じくロシア出身のプロコフィエフの名前も、セルゲイ。ロシアにはセルゲイの名は多いのでしょうね。
音楽家に天才が多いのは半ば常識ですが、ラフマニノフもそのひとり。ラフマニノフのお父さんは、貴族。そんなこともあって、ラフマニノフのお姉さんのところにはピアノ教師が通って来ていた。
ラフマニノフが四歳の時、半分いたずらにピアノを鳴らした。それを聴いたピアノ教師教師が驚いた。音感の良さに。それでモスクワから特別のピアノ教師がラフマニノフのために呼ばれることになったという。
ラフマニノフは九歳で、ペテルブルク音楽院に。その後、モスクワ音楽院に。ここで対位法を教わったのが、タネイエフ。タネイエフの名前もやっぱり、セルゲイだったそうです。このモスクワ音楽院で同級生だったのが、スクリャーピン。アレクサンドル・スクリャーピン。
1891年にモスクワ音楽院を卒業する時、首席を争ったのが、ラフマニノフとスクリャーピン。結局、この年に限って、首席のための金メダルをふたつに分けたという。
1895年。ラフマニノフは『ピアノ協奏曲第一番』を作曲。これがなぜか不評で。ラフマニノフは失望落胆。もう作曲ができないほどに。そんな時に偶然、チェホフに会って、励まされる。
「君の音楽に代わるものはないよ。」
このひと言で、自信を回復。それで取り組んだのが、『ピアノ協奏曲第二番』。1901年のことです。『ピアノ協奏曲第二番』は、今なおラフマニノフの代表曲とされています。
ラフマニノフの『交響曲第三番』が、アメリカ、フィラデルフィアで演奏されたのが、1936年。
1936年にイギリスで生まれたのが、レジナルド・ヒル。レジナルド・ヒルが2000年に発表したミステリが、『武器と女たち』。この中に。

「履いていたのは柔らかいモカシンよ、紐なし、暗い褐色、カジュアルだけどエレガント。」

これはエリーの科白。ある人物の服装を思い出そうとしている場面。モカシンであろうとなかろうと。「カジュアルだけどエレガント」でありたいものですね。

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