トリエステは、北イタリアの町ですよね。北イタリアといっても、ほんとうに「長靴」の履き口を折り返したあたり。須賀敦子の随筆、『トリエステの坂道』、あのトリエステでもあります。
トリエステはアドリア海に面した港町で、むしろウイーンの町に似た匂いが流れています。須賀敦子でなくとも一度は訪ねてみたい土地でしょう。トリエステはまた、カフェの町でもあります。数多い名店の中でも老舗なのが、「カフェ・トンマゼーオ」。
「カフェ・トンマゼーオ」は、1830年の開店というから、古い。1830年に、トマソ・マカルトがはじめたので、その名前があります。もっとも開店の時には、「カフェ・ヌオヴォ・トマソ」だったという。
トマソ・マカルトはある時、ウイーンを訪れて、そのカフェの美しいことに驚いた。「トリエステにもこんなカフェがあったらなあ…………」。それではじめたのが、「カフェ・ヌオヴォ・トマソ」だったのです。「カフェ・ヌオヴォ・トマソ」では、ウイーン式の、美味しい珈琲を出した。それにビリヤード台があり、新聞が揃えられてもいました。当然、「カフェ・ヌオヴォ・トマソ」は、繁盛した。それが今の、「カフェ・トンマゼーオ」なのです。
「カフェ・トンマゼーオ」の名前は、1918年からのことだそうですね。1905年に、この店で珈琲を飲んだひとりに、ジョイスがいます。アイルランドに生まれた作家、ジェイムズ」ジョイス。ジェイムズ・ジョイスが二十世紀最高の作家のひとりであるのは、言うまでもないでしょう。
では、ジョイスはどうして1905年にトリエステに行ったのか。「ベルリッツ」の英語の先生になるために。ジョイスは数ヶ国を操ることができたという。1905年以降、短い間、ローマにも住んではいます。が、1915年6月末にチューリッヒに移り住むまでは、基本的にトリエステの住民だったのです。トリエステでのジョイスはしばしば今の「カフェ・トンマゼーオ」に通った。原稿を書くために。
ジョイスの代表作のひとつに、『若き芸術家の肖像』があります。この原稿の最後に、このように記されています。
ダブリン、 1904。
トリエステ、1914。
これはたぶん、『若き芸術家の肖像』が、1904年にダブリンで書きはじめられ、1914年にトリエステで買い終えた、という意味なのでしょう。『若き芸術家の肖像』の大部分が、トリエステで執筆されたのは、間違いありません。もちろんその中には「カフェ・トンマゼーオ」での部分も含まれているでしょうが。
トリエステでのジョイスは、映画館の経営を試みたことがあります。また、トゥイードの輸入を考えたことも。故郷のアイリッシュ・トゥイードをイタリアに運んで。アイリッシュ・トゥイードは、ドニゴル・トゥイードのことで、当時のイタリアではそれほど一般的ではなかったのでしょうね。
いや、それ以上に、ジョイスがドニゴル・トゥイードに愛着と誇りとを持っていたことが窺えるに違いありません。ドニゴル・トゥイードは、「ナップ」 ( 節糸 ) が美しく飛んでいるのが特徴のトゥイードですよね。