パーカーは、人の名前ですよね。ジャズのほうでも、チャーリー・パーカーいます。愛称は、「バード」。
ジャズで、アルト・サックスを持たせては右に出る者にいなかった天才プレイヤー。1940年代にチャーリー・パーカーと仲良しだったのが、ディジー・ガレスピー。ガレスピーもまた最高を極めたジャズ・トランペッター。
ディジー・ガレスピーとチャーリー・パーカーがいかに親しかったかについて、ガレスピーはこんな風に語っています。
「朝の三時にバードがやって来てね…………」、と。
どうしてチャーリー・パーカーは朝の三時にガレスピーの自宅を訪ねたのか。パーカーは突然、新しい曲を想いついて、すぐにガレスピーに聴かせたかった。忘れるといけないので。
でも、ガレスピーはドアを開けなかった。と、バードは部屋の前で「新曲」を、吹いた。ガレスピーは扉の内側でそのメロディーを五線紙に書きとったという。
R・G・ライズナー著『チャーリー・パーカーの伝説』に出ている話なのですが。『チャーリー・パーカーの伝説』の中で、マイルス・デイヴィスは、こんな話をしています。
「一年間、私はチャーリー・パーカーと同じ部屋に暮した。」
1940年代、マイルス・デイヴィスは、ニューヨークの「ジュリアード音楽院」に。この時、マイルスはバードの家に居候をしています。
1958年にマイルス・デイヴィスが映画音楽を担当して話題になったのが、『死刑台のエレベーター』。当時のパリではそれくらいに、ジャズが流行っていたものです。マイルスの『死刑台のエレベーター』は、今聴いても名曲であります。
『死刑台のエレベーター』の原作を書いたのが、ノエル・カレフ。ノエル・カレフ著『死刑台のエレベーター』の中に。
「肩の線のなだらかなグレイのジャケットに、ボタンをうんと高めにつけて、細い腰回りはゆったりと仕立ててある。」
これはフレッドという男の着こなし。場所は、サン・ジェルマン・デ・プレ。
たぶんこれは、ハイ・ボタンの上着なのでしょうね。十九世紀の上着は、基本的にハイ・ボタン。それが二十世紀にかけてだんだん低くなったものです。ごく簡単に言って、ハイ・ボタンほどクラッシックなスタイルとなるのです。
ハイ・ボタンのジャケットを着て、チャーリー・パーカーを聴きたいものではありませんか。