エッセイと燕尾服

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エッセイは、随筆のことですよね。そうは言ってみたものの、ほんとうにエッセイと随筆は同じものなんでしょうか。
エッセイは、essay とも書きますし、essai とも書くようです。まあ、英語とフランス語の違いなんでしょう。
一説に、フランスのモンテーニュの『エセー』がはじまりとも。また、イギリスのフランシス・ベーコンの『エッセイ』から出ているとも。
フランス語で書けば、「エッセー」、英語で書けば、「エッセイ」、日本語で書けば、「随筆」になるのでしょうか。
「随筆」の名手のひとりに、寺田虎彦がいます。寺田虎彦は数多くの名随筆を遺しています。寺田虎彦の本業は科学者で、それで随筆の名人、不思議なくらいであります。では、寺田虎彦はどうして名随筆家となったのか。
たぶん夏目漱石との関係が大きいのではないでしょうか。夏目漱石は、熊本の「五高」の先生で。寺田虎彦はその生徒。寺田虎彦は、明治三十一年に、夏目漱石の自宅を訪ねています。寺田虎彦の同級生の成績があまりよろしくない。虎彦は友情にかられて、「なんとか落第させないで………」と、お願いに。
お願いの話が終ってから、虎彦は漱石に訊いた。「先生、俳句とは何でしょうか?」。これに答えた漱石。

「扇の要のようにものである。」

俳句は「扇の要」しか表現しない。が、そこから連想の世界が拡がるのだ、と。虎彦が「扇の要」をどのように理解したかはさておき、漱石の影響から句作に精出すようになっています。つまり虎彦は句作の下拵えがあったから、随筆にも達者だったのでしょう。
寺田虎彦が大正十年に発表した随筆に、『旅日記から』があります。この中に。

「一等室のほうからも燕尾服の連中がだんだんにやってくる。女も美しい軽羅を着てベンチへ居並ぶ。」

これはアラビア海から紅海に向かう客船での様子なんですね。これから、ダンス・パーティー。ということは寺田虎彦もまた、イヴニング姿だったのでしょう。
イヴニング・コートの源は、十八世紀の乗馬服。身体にぴったりフィットした両前の乗馬服。馬から降りて前ボタンを外して、今の燕尾服になってのです。
でもこの駄文、ちっとも「随筆」にさえなっていないのですが。

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