泣菫で、作家でといえば、薄田泣菫でしょうね。薄田泣菫の本名は、薄田淳介。明治十年五月十九日に、岡山に生まれています。
泣菫は、「泣くスミレ」の意味。どうして、スミレが泣くのか。
露に濡れてすすり泣く優しの菫が…………………。
オスカー・ワイルドの『キーツの墓』と題する詩の一節に、そんなのがあって。薄田泣菫はそこから「泣菫」の号を思いついたんだそうです。
この一例からも窺えるように、薄田泣菫は最初、詩人として出発しています。そして後に、随筆家に。薄田泣菫の代表作は、『茶話』。これは大正のはじめ、当時の「大阪毎日新聞」に連載されて好評を博したものです。
大正時代の随筆家で、博覧強記の人は、まず第一に、薄田泣菫でありましょう。薄田泣菫は博覧強記であっただけでなく、男前だった。
「薄田泣菫氏は希臘の神々のやうに常に若い顔をしてゐる。」
芥川龍之介は、『人及び藝術家としての薄田泣菫氏』という随筆の中に、そのように書いています。
「希臘の神々のやうに」。芥川龍之介がそうおっしゃるからには、ハンサムだったに違いありません。
その頃、芥川龍之介を、「大阪毎日新聞」に招いたのが、薄田泣菫だったのですが。
薄田泣菫の『茶話』に、手袋の話が出てきます。ただし泣菫は、「手套」と書いて、「てぶくろ」と訓ませているのですが。大正七年「大阪毎日新聞」11月2日の夕刊に出ています。かいつまんで申しますと。
その頃ニュウヨークに「ワーナーメーカー」という百貨店があって。その手袋売場に、女店員がいた。まあ、仮にイヴとしておきましょうか。
いつものようにイヴがマダムの客に手袋を販売して。その様子をひとりの紳士がじっと見ている。
マダムへの接客が終わると近づいてきて。
「キッドの手袋を………」といって、それを買った。しかる後に紳士はイヴに言う。
「あなたの接客は完全とは言えないようですね。」「私がここで、あなたに代って販売してみましょう。」
つぎに、またマダムが、「白手袋を下さい」と来て、紳士が応対。紳士はマダムに白手袋を売ったばかりか、四双の手袋まで買ってもらった。
イヴはその巧みさに舌を巻いて。
「あなたはどこか他の手袋売場で、ご経験がおありなのね。」
そこではじめて紳士は名刺を出して、自己紹介。名刺には「ワーナーメーカー」とあった。社長のミスタ・ワーナーメーカーだったのです。
まあ、ざっとそんなふうに、その時代の紳士は、キッドの手袋を良しとしたものなのです。
なぜ、キッドなのか。伸縮性に富んでいたから。つまり、手によくフィットする革だったのです。むろん、紳士は季節に関係なく、エティケットとして手袋を嵌めたものであります。