篦棒とペラン

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篦棒は、「とんでもなく」といった意味ですよね。でも、「篦棒」は今も現役の日本語なんでしょうか。第一、べらぼうを「篦棒」と書くのが正しいのか、どうか。
べらぼうは、江戸、延宝期に実在した人の名前という説があります。便乱坊。この人、容貌魁偉にして、奇人。見世物の藝人だったという。この便乱坊が「とんでもない」人物だったので、後に「篦棒」の宛字が生まれたのだとか。

「ところが、坂本さんの郷里の家といふのが、べらぼうもないお金持ちなんだもの。……………………。」

井伏鱒二が、昭和二十三年に発表した『引越やつれ』に出てくる一節。少なくとも昭和二十三年には、「べらぼう」が生きていたものと思われます。
井伏鱒二に師事した作家に、三浦哲郎がいます。これはたぶん太宰 治との関係でしょう。太宰 治もまた井伏鱒二を敬した作家でしたから。太宰も三浦哲郎も同じく、青森の出身。

「座談会で三浦哲郎が龍太さんに会ひたいので僕に連れて行つてもらふやうにしてくれと………………………」。

昭和51年2月29日付の手紙に、そのように書いています。もちろん井伏鱒二から、飯田龍太に宛てての書簡の中に。
「篦棒」が出てくる随筆に、『カメラ』があります。團 伊玖磨が1976年頃に発表したエッセイ。

「親戚の誰かが日光写真のセットをくれて、それが篦棒に気に入って、興奮してしまった僕が………………」。

「日光写真」も懐かしいものになってしまいましたが。「セット」というのさえ、気恥かしいものですが。煙草の箱くらいの大きさで、一枚のガラス板が挟んであって。ここにタネ紙と印画紙を重ねて、太陽に翳す。と、タネ紙の反転が印画紙に写る仕掛けの「カメラ」だったのです。
團 伊玖磨はまた同じ頃、『手袋』という題の随筆も書いています。

「薄いバック・スキンで、黒が鮮やかで、気に入っていた。」

その気に入っていた手袋の片方を失くす話。「黒が鮮やか」。佳い形容ですね。黒の色が、深い。では、その「黒が鮮やか」な手袋は、どこで買ったものなのか。

「パリのマドレーヌ寺院の近くのペランで買った気に入った物だった。」

たしかに、「ペラン」P err in という手袋専門店がありました。世界一とは申しませんが。控えめに言って、巴里随一の手袋屋ではあったでしょう。
ペランに入ると、ほぼ中央にエメラルド・グリーンのびろうどを張った肘台があって、この上に淑女が肘を置いて、手袋の嵌め具合を試していたものです。肘台の脇には佳い匂いのするタルカム・パウダーが置いてあって。爪の形がくっきり浮かびあがるほどにフィットするガンを選ぶのでした。
まあ、それはともかく、昔の巴里に「ペラン」というとびきりの手袋専門店があったことは覚えておいて良いでしょう。
もっともお値段のほうも、「べらぼう」だったかも知れませんが。

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