和歌は、大和歌のことですよね。
日本に生まれ、日本で永く愛されてきた詩のことであります。
どうして、「和歌」なのか。これは漢詩と区別するためなんですね。
中國には中國の詩があるように、日本には日本の詩が。それで、「和歌」となったのでしょう。
和歌は、だいたいにおいて。五、七、五、七、七という言葉の連なりからなっています。
そのために、「三十一文字」とも呼ばれます。これで、「みそひともじ」と訓むわけですが。
五と七、五と七、それに七を足すと、三十一になるので。
俳句がふつう、五、七、五を定型とするのも、やはり和歌の伝統から来ているのでしょう。
和歌の歴史は少なくとも千年を超えているわけで。五、七、五は日本人の身体の奥深くに棲みついているようですね。
飛び出すな 車は直ぐに 止まれない
月並な標語ではありますが、これだって五、七、五ゆえに頭に入ってしまうのでしょう。
マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや
あまりににも有名な、寺山修司の短歌ですが。これまた、五、七、五、七、七の定型に収められています。
寺山修司は短歌から出発して、そのが詩から小説、演技へと自在に活躍した異端児でありました。
「縄目なしには自由の恩恵はわかりがたいように、定型という枷が僕に言語の自由をもたらした。」
寺山修司著『空には本』の中で、そのように書いています。
「定型があるから自由になれる」。一見、矛盾のようでもありますが、よく考えてみれば、その通りなんでしょうね。
北原白秋は、大正十五年に、小田原から東京へ。谷中に住んでいます。その時に。
移り来て まだ住みつかず 白藤の この垂り房も みじかかりけり
まるで独り言のような短歌ですが。ここにも五、七、五、七、七の音の魔力が生きているように思われます。
和歌が出てくる小説に、『青春』があります。明治三十八年に、小栗風葉が発表した物語。
「白浪の、かかる浮身を知らでやは、和歌にみるめを戀すてふ……………………。」
これは、「純之助」 がひとりで語っている場面。歌の『末の契』の一節なのですが。
また、『青春』には、こんな描写も出てきます。
「………唯見ると綛のやうな變格子の米澤の綿入小袖に、金茶の横縞へ花鳥の飛模様の入つた藤鼠の博多の帯。」
明治三十年代に、「綿入小袖」があったことが窺える一節でしょう。綿入小袖ということは、外出着にもなったのでしょう。
当時の日本では、絹の着物には真綿を入れた。麻の着物には、麻の綿。綿の着物には綿の綿を。
いうまでもなく、真綿は絹綿のことであります。温かいことこの上もなし。
どなたか薄く真綿を張ったシルク地のスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。