京都とキルト

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京都は、古の都ですよね。
明治になって天皇が遷都なさるまで、京都に御所があったののですから。
昔の京都の人に言わせますと。
「ほんのちょい東京にお貸しして………」
なんだそうですが。
京都は日本人の心の故郷。誰もが郷愁を感じる町です。
明治中頃、京都に旅したお方に、漱石がいます。夏目漱石は、親友の正岡子規とふたりで
京都に赴いています。

「子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行いた事を記憶してゐる。」

夏目漱石は、『京に着ける夕』と題する随筆の中に、そのように書いています。
子規と漱石がふたりで京都を歩いていると。子規がどこやらで、夏蜜柑を買ってきて。夏蜜柑を食べながら、歩いて。
すると、どこからか、「もしもし………」と女の招く声が。「あの女たちは何なのか?」と。
漱石は子規に訊いて、納得する場面も出てきます。
明治中期、京都の「女」は、客をもしもしと呼んだ。これまた貴重な風俗史でありましょう。
夏目漱石は京都にも行き、ピトロクリにも行っています。ピトロクリはスコットランドの小村。明治三十五年。漱石英國留学中のことであります。スコットランドのピトロクリで漱石は何を見たのか。

「腰にキルトといふものを着けてゐる。俥の膝掛の様に粗い縞の織物である。」

漱石は、『永日小品』という文章の中に、そのようにはじまって、スコットランドの服装を詳しく述べています。
「キルト」k ilt は1730年頃に生まれたと、考えられています。グレンガリーの鉄工所に於いて。
この鉄工所の主人、トオマス・ローリンソンが、「上下、ふたつに分けてはどうか」と、
提案したことによって。
トオマス・ローリンソン自身はイングランド人で、そこに働くスコットランド人に対して、言ったんだそうですね。
つまり、1730年代以前のタータンは例外なく、一枚の布だったのです。一枚の布を巧みに身体に巻きつけることで、正式の民俗衣裳としたものであります。
どなたか正しいキルトを仕立てて頂けませんでしょうか。

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