タッパと足袋

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タッパは、天井までの高さのことですよね。
タッパはまた「立端」とも書くことがあるんだそうですが。むかしの日本には「タッパ」の言い方はなかったらしい。たぶん、昭和に入ってからのことではないでしょうか。もしもそうだとするなら、昭和語というべきでしょうか。

「………四十一メートル十九タッパの松屋あるいは四十ニメートル五十六タッパの松坂屋等々がずらりと立並ぶ……………………。」

木村荘八が、昭和三十年に書いた『東京繁昌記』にも、そのように出てきます。
木村荘八には、木村荘五というお兄さんがあって。そのお兄さんから聞いた話として。
「タッパ」の語源を次のように書いています。

むかしからの大工言葉に、「上端」、「下端」というのがあった。ここに明治以来の「トップ」 t op という言葉が入ってきて。このトップと上端とが混ざって、「タッパ」になったのだとか。
少なくとも木村荘五、荘八の兄弟は、この説を信じていたようですね。
木村荘八は多く、永井荷風の小説の挿絵を描いた絵師でもあって。明治大正への郷愁は人一倍強いお方でもあったらしい。

「………清元師匠、牛乳屋、髷屋、かもじ屋、仕立屋……………………。」

むかしの馬喰町の一軒一軒を、思い出してもいます。

「前の羽左衛門いつもシラ結城の紺無地の反物を四丁目の佐野屋へ渡しておいて、それで自分常用の足袋を縫わせていたと……………………。」

普段用の足袋に、絹、結城の足袋。粋ですねえ。「佐野屋」はむかし銀座にあった足袋屋。
そもそもの足袋は、奈良時代以前の「履」と関係があるらしい。その時代の「履」は木製で、素足には痛いし、寒い。そこで、襪という今の足袋の元祖が生まれたんだそうですね。
江戸期の戯れ句に。

何文の  足袋やら二十  七の春

というのがあります。これはむろん遊女の一句。
当時、遊女の定年は数えの二十七。定年になってはじめて履くので、自分の文数が分からないという句なのですね。
結城の紺足袋には及びませんが。どなたか絹の水玉の靴下を作って頂けませんでしょうか。

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