モダンとモード

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モダンは、新しいことですよね。
「モダン・アート」などというではありませんか。あるいはまた、「モダン・ジャズ」とか。
なにかひとつの「古典」があったとして。そこから新しい発展があった場合、「モダン○○」と呼ばれることになるのでしょうね。
つまりモダンの反対語は、「クラッシック」なのかも知れません。

「此の頃新聞でよく使ふモダン ( m od e rn ) といふ字は何ういふ意味だなどと鉄之助に聞いた。」

田山花袋が、明治四十一年に発表した小説『生』に、そんな一節が出てきます。この
田山花袋の『生』を信じると、明治四十年頃の新聞にはしばしば「モダン」の言葉が用いられたものと思われます。
言い換えば、「モダン」は明治四十年の流行語だったのでしょう。
でも、小説の中で「モダン」を問われた「鉄之助」は、その意味を答えていません。たぶん
「モダン」は具体的に説明するのが難しい言葉でもあるのでしょう。
それは明治四十一年から百年以上経った今でも、ほとんど変ってはいないのではないでしょうか。
「モダン」とはいったい何であるのか。これを真面目に研究した人物に、片岡鉄兵がいます。片岡鉄兵は、戦前に活躍した小説家。川端康成や横光利一などとも親交のあった作家です。

「さて、モダン・ボオイとは、この時代のモオドを持つた若者である。では、この時代の流儀とは何であるのか?」

片岡鉄兵は、昭和二年に発表した『モボ・モガ研究』の中で、そのように書いています。
『モボ・モガ研究』はもちろん小説ではなくて、れっきとした評論なのです。それもかなり浩瀚な分量の評論。
片岡鉄兵の説によりますと。その時代のモードを備えているのが、モダンなことなのだ、と。
片岡鉄兵は「モオド」と書いているのですが。また、「ボオイ」と表記しているのですが。
ここから少し飛躍しますと。「モダンとはモードのことなり」。そうも言えるのかも知れませんね。

「……………最新流行の襟のついたシャツを着て列車に乗り込もうとしていた若者を初めて見たときには、カトリックの神父を見たと本気で思ったものだ。」

ヴァルター・ベンヤミン著『パサージュ論』の一節に、そのように出ています。
つまりモダンは「古典」を引用する、と言いたいのでありましょう。
ベンヤミンの『パサージュ論』は、読み方によっては、『モード論』でもあります。
どなたか「古典」から引用したモダンなスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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