海水着は、海で泳ぐ時の服装ですよね。まあ、男ならたいていは海水パンツでしょうか。
むかしは赤い六尺と決まっていたものです。赤は、目立ちやすいので。それに六尺なら万一溺れたときに助けやすいので。
1930代までの西洋での海水着は、多く「タンク・スーツ」。ワンピース型の海水着。後の時代に上半身だけが独立したものを、「タンク・トップ」と呼ぶのは、そのためなんですね。
「此所で海水着を洗濯させたり、此所で鹽はゆい身體を清めたり、此所へ帽子や傘を預けたりするのである。」
大正三年に、夏目漱石が発表した『こころ』に、そのような一文が出てきます。
場所は、鎌倉海岸。「此所」とは、「掛茶屋」。漱石は、「掛茶屋」が当時、二軒あったと、書いています。今のビーチハウスでしょうか。
そもそも日本で海水浴らしきものがはじまったのは、明治十年頃のこと。当時、陸軍軍医総監だった、松本 順に提唱によって。大磯海岸が海水浴に最適であると。
その時代の「海水着」は、褌。女は襦袢に腰巻であったという。
「………細君令嬢并に女教師女生徒らしき連中が、身に薄き金巾の西洋寝巻を纏ひ、首に大なる麥藁帽子を冠り……………………。」
明治二十二年『朝野新聞』八月十七日付の記事に、そのように出ています。その見出しは。
「何と大ッぴらに 婦人が海水浴」
ろ、なっているのですが。
ここでの「金巾」は、コットン・ブロードのことです。それにしても、「西洋寝巻」とは、驚かせられます。
明治二十二年のこの記事も、取材の場所は、大磯海岸だったのですが。この記事から想像するに、日本での「海水浴」は、明治二十年代、大磯ではじまったと、考えてよいでしょうね。
でも、海水着は必ずしも海水浴でと決まっているわけではなくて。
「夏の間だけ、海水着を着てショウウィンドウの中へはいってくれないか」
昭和二十七年頃、井上 靖が書いた短篇『海水着』に、そのような一節が出てきます。
これはある百貨店に勤める「津岐子」が上司から依頼された「仕事」。
たしかに飾窓の中に、生きた人間が海水着を着て入ったいたら、注目されるでしょうね。
井上 靖が、昭和二十九年に発表した短篇に『青いカフスボタン』があります。
「そのまくり上げているワイシャツの青いカフスボタンが印象的だった。私には、それが英雄の象徴のように頼もしく見えた。」
これは大新聞社の、部長、「山端虎太」の様子。カフ・リンクスにもいろんな効果があるんでしょうね。
ところで、「青いカフスボタン」は、どんなカフ・リンクスだったのでしょうか。
煩いことを申しますと。カフ・リンクスにも大きく分けて二つがありまして。ビフォア・シックスと、アフター・シックスとが。
たとえばサファイアのように光る宝石類は、夜間用。それほど光沢のないものは、ビフォア・シックスに適しています。
どなたかアフター・シックス用の絢爛たるカフ・リンクスを作って頂けませんでしょうか。