フレデリックとフラッシャーズ

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フレデリックは、男の子の名前ですよね。フレデリックの名前の男の子は、たぶん星の数ほどいることでしょう。
フレデリックで、音楽家でといえば、フレデリック・ショパンでしょうね。
フレデリック・フランソワ・ショパンは、1810年3月1日にポーランドに生まれています。
ただし、フレデリック・ショパンのほんとうの誕生日は、よく分かってはいません。
1810年2月22日とする説もあるようです。
ショパンのお父さんの名前は、ニコラ。お母さんは、ユスティナ。
ワルシャワ郊外の、ジェラゾヴァ・ヴォーラという小さな村に生まれているのですが。
この村の教会「聖ロフ」には、フレデリック洗礼の記録が遺っています。その資料によりますと。

「1810年2月22日午後6時に誕生」

そのように記されています。が、これは父のニコラが、4月23日午後3時に教会に出向いて述べた内容。これが決定的とは必ずしも言えないからです。
ただ、フレデリック・ショパンが1810年の春に生まれたのは、間違いありません。

「………正真正銘、音楽の天才なり。至難の曲をいともたやすやすかつ非凡なる審美眼を以てピアノ上で奏でるのみならず……………………。l

1818年『パミェントニク・ヴァルシャフスキ』誌1月号の記事の一節に、そのように出ています。
これはフレデリック・ショパンが作曲した『ポロネーゼ ト短調』を讃える内容になっています。1817年のこと。フレデリックは、七歳だった計算になるでしょうか。

「ショパン氏は当初から第一級の巨匠として登場した。彼のタッチの絶妙なこまやかさ。ことばにつくせない技術の巧みさ。……………………。」

1829年『アルげマイネ・ムジカリッシェ・ツアイトゥング』11月18日付記事の、一節。
これは1829年8月に、ウイーンで行った演奏会の模様を伝える記事のひとつとして。
フレデリック・ショパンは、1849年10月17日、水曜日。午後二時。巴里、
ヴァンドーム広場12番地のアパルトマンで、永眠。
この時の遺品のひとつ、「肘掛け椅子」が今も記念館に保存されています。四本の脚それぞれに、小さな車がついていて、座ったままでも移動できる工夫がなされています。

「きっと生前家具商人をやって生計を立てていたに違いありません。」

1845年8月1日。お姉さんの「ルドヴィカ」に宛てた手紙の中で、ショパンはそのように書いています。
ショパンの時代すでに、あまりにも多くの「ベートーヴェン愛用の机」などが出回っていたことを皮肉って。

フレデリックが出てくる戯曲に、『お気に召すまま』があります。シェイクスピアが、
1599年頃に書いた劇作。
フレデリックは、弟。兄の公爵を追い出した人物と設定されています。フレデリックと相対する貴族に、オリヴァー。オリヴァーに仕える下男に、「アダム」が。
初演の1603年頃には、作者、シェイクスピア自身が、「アダム」を演じただろうと、考えられています。
『お気に召すまま』の中に。

それから長靴下の靴下どめもはずれ、帽子の帯もはずれ、袖のボタンもはずれ…………………。」

老公爵の娘「ロザリンド」の科白として。ロザリンドは男装しているので、このような科白になるのですが。
たぶん、ロザリンドはホーズ 長靴下を履いているのでしょう。ガーターを結んで、留めて。そのガーターが外れた、と言っているのでしょう。
長靴下に、靴下留め。靴下留めを結んで、長靴下を折返し、ガーターの端を少し見せる。このリボンを結んだ端のことを、「フラッシャーズ」 fl ash ers 。ひらひら、ちらちらのぞいて見えるからですね。
どなたかフラッシャーズで留めたくなるようなカシミアの長靴下を編んで頂けませんでしょうか。

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