パッシーとバティスト

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パッシーは、町の名前ですよね。巴里にもパッシーはあります。P assy と書いて、「パッシー」と訓みます。
パッシーも広い地域ですが、ここには「パッシー墓地」もまたあります。たとえば画家のマネもこの「パッシー墓地」に眠っています。
エドゥアール・マネは、1883年4月30日に、人生の幕を閉じ、ここに葬られらたのです。
また、クロオド・ドビュッシイや、ガブリエル・フォオレの墓もここあります。
昔あって今ないものに、温泉。むかしパッシーには「パッシー温泉」があったという。十八世紀の話ではありますが。

「わたしはね、パッシーの温泉を甦らせようと思っているの。パッシーの温泉だよ。」

コレットが、1926年に発表した『シェリの最後』に、そのように出ています。これは、六十歳の、レアの科白。
レアの意見によると。今もレヌアール街の下の源泉はあって、そこを掘ればいいのだ、と。もちろん、1925年ころのことではありますが。
ガブリエル・コレットは、1873年1月28日の生まれ。1926年には、五十三歳でありました。でも、『シェリの最後』という、大胆な、尖鋭的な小説を書いています。
コレットは1953年に。レジョン・ドヌールの最高位を、はじめての女性として受けてもいます。
1954年8月3日、八十一歳で死去。8月8日には、国葬。ちょっと比較しようのない女流作家であります。
『シェリの最後』には、こんな描写も出てくるのですが。

「胸のあたりがきっちりした薄くて白いバチストのブラウスを下に重ねていた。それに真珠のボタン……………………。」

これは、シュニアギーヌ公爵夫人の着こなし。
たぶん、「バティスト」b at ist e のことかと思われます。
フランス語としての「バティスト」は、1401年頃から用いられているとのこと。もともとは、リネンの織物。
その昔、ジャン・バティストなる職人が織りはじめたので、その名前があるとも。
バティストのシャツで、巴里に行きたいものです。「真珠のボタン」ではありませんが。

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