土佐日記とドレス・スタッド

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土佐日記は、日本の古典ですよね。
『土佐日記』の完成は、西暦の934年頃のこととされますから、少なくとも千年以上の歴史があるわけです。
『土佐日記』の作者はいうまでもなく、紀 貫之。平安時代の貴族であります。貴族であると同時に、優れた歌人でもあった人物。
平安時代に紀 貫之は任務として「土佐守」に任命されて。その任務を終えて、京に帰るまでの旅日記が、『土佐日記』なのです。
ただし、ここにひとつの工夫が凝らしてあって。「女装」しているんですね。それで。

「男もすなる日記といふものを、女もしてみんとて、するなり。」

と、書きはじめられているわけですね。
紀 貫之は「日記」と書いて「にき」と訓ませているのですが。つまり。
「男が書くとされる日記を女の私も書いてみましょう。」そんな構成になっているわけです。これはひとつには漢文ではなく和文で書く目的があったのではないでしょう。
平安期の常識からすれば、男の文章は漢文、女の文章は和文であったのです。そこで貫之は、より柔らかい表現のために、「女装」したのではないかと思われます。
紀 貫之の意図がどこにあったかはさておき。その後の日本文学に、『土佐日記』が大きな影響を与えたことは、間違いありません。

「………ほやのつまの貽鮨、鮨鮑をぞ……………………。」

紀 貫之は船の中でもご馳走を食べています。人々が餞別を持ってくるので。
紀 貫之は役人として愛されただけでなく、歌人としても尊敬されていましたから、多くの土産に事欠かなかったようですね。

阿川弘之が、昭和五十年に書いた随筆に、『土佐日記』があります。古典とは直接関係はなくて。阿川弘之が友人に誘われて、土佐を旅する随筆なので、『土佐日記』と洒落たわけですね。
阿川弘之が土佐に行くと、土地の人に問われる。
「お酒はどのくらい飲むか?」。阿川弘之こたえて曰く。
「割りに好きです」。
と、三浦朱門が聞き咎めて。「土佐に来てそんなことを言ってはいけない」。
土佐で「少々」と言ったならそれは、「二升は飲める」の意味なんだからと。土佐は今も昔も、酒豪天国のようであります。
阿川弘之が昭和五十三年に書いた随筆に、『女王陛下の阿房船』がありまして。これは友人の、北 杜夫たちと「クイーン・エリザベスII」に乗る話。
北 杜夫は、阿川弘之に泣きつく。

「僕はワイシャツのあの飾りボタンがはめられない。どうしてもはめられない。助けてくれ」

北 杜夫に限らず礼装用シャツの飾りボタンは誰にとっても嵌めにくいものです。
ドレス・スタッドは十九世紀の習慣で。十九世紀の貴族は例外なく召使いに留めてもらったのですから。
ドレス・スタッドを自分で留めるには、下から順に留めるのが、コツ。
そしてもっと簡単な方法は、飾りボタンを一個にすること。これならまあ、北 杜夫でも大丈夫。
つまりドレス・スタッズではなく、「ドレス・スタッド」のシャツを選ぶこと。
どなたか正装用のシャツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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