大橋と折目

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大橋は、人の姓にもありますよね。大きな橋とも解せますから、佳い苗字でしょう。
たとえば、大橋鎮子。大橋鎮子は忘れてはならない編集者のお名前であります。大橋鎮子は、『美しい暮しの手帖』の編集者だったお方です。
『美しい暮しの手帖』は、昭和二十三年の創刊。でも、その前があるのです。「衣裳研究所」。昭和二十一年のこと。これは花森安治が、大橋鎮子らに語りかけて作った会社だったのであります。
もともとは日本の服装を改革するための会社だったのです。そのためのひとつの方法が、
『美しい暮しの手帖』だった。つまり『美しい暮しの手帖』は戦後初のファッション誌として、誕生しているのです。
『美しい暮しの手帖』創刊号は、一万部の印刷。さすがに苦戦もしたようですね。
大橋鎮子たちは手分けして、一軒一軒の本屋を訪ね歩いて、五冊、十冊と置いてもらったりもしたようです。会社に戻ってくると、夜の11時、12時。それでも社員は皆、待ってくれていたという。
『美しい暮しの手帖』に変化が訪れたのは、「第五号」。117,500部の記録を達成。第五号から突然のように『美しい暮しの手帖』が売れはじめたのです。きっかけは、「第五号」に掲載された『やりくりの記』。
『やりくりの記』をお書きになったのは、皇族の東久邇成子様。これは花森安治の指示で、
大橋鎮子が原稿依頼をした結果だったのです。
次の「第六号」が、138,000部。
そもそも『美しい暮しの手帖』は少し変った雑誌でもあって、増刷可能。売れた分は前に遡って、増刷をする。たとえば、「第一号」は、その後、何度も増刷されています。
ある時、撮影の小道具に、小さな座布団を置こうということに。花森安治は「紅赤のウール地がいい」と。
大橋鎮子は「紅赤のウール地」を探しに探して、ない。「ないなら、染めてもらいなさい」と、花森安治。大橋鎮子は白のウール地を2メートル買って。花森安治、「まあ、いいだろう」。で、大橋鎮子は小座布団にして、撮影。「第十四号」ですから、当然モノクロームの写真。
さすがに大橋鎮子は花森安治に言った。「モノクロームになぜ、紅赤なんですか。花森安治は答えた。

「そのうちにカラーの時代になる。カラーの時代に君たちが対応できなくては困るからだ。」

大橋は大橋でも。男性歌手で大橋なら、大橋節夫でしょうか。
大橋節夫は、故き佳き時代の、ハワイアン歌手。歌手でもあるのですが、作詞、作曲も手がけています。

🎶 秋の夜はふけて……………。

名曲、『倖せはここに』は、大橋節夫の作詞、作曲。仇名を、「オッパチ」と呼ばれたものです。
ことに『倖せはここに』は、ハワイアンであるか否かを超えて、ずいぶん流行ったものであります。
やはり大橋節夫の作詞、作曲に、『ズボンの折り目』が。ハワイアンで「ズボンの折り目」は、珍しい歌でしょう。
これは昔の女が、別れた男に呼びかける内容になっています。
「………ズボンの折り目だけはきちんとしていてね……………。」

折目は、「クリース」cr e as e は、英国の、1890年代にはじまっています。英国皇太子が最初に折目のあるズボンを穿いたのだと。
ある時の旅先で、侍従がズボンを畳み違えて。前後に筋が入ってしまって。でも、皇太子はそれを平気で、穿いて。やがて、後にそれが流行になったんだそうですね。後のエドワード七世が皇太子の時代でありました。
どなたかクリースの映えるズボンを仕立てて頂けませんでしょうか。

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