パリとバーバリー

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パリは、フランスの都ですよね。アメリカにニュウヨークがあるように、イギリスにロンドンがあるように、日本に東京があるように、フランスにはパリがあります。
パリはまた、「藝術の都」でもあるんだそうです。
1900年代に、スペインからパブロ・ピカソがパリにやって来て、絵を描いた。これが後に「立体派」とされる名画になった。
1910年代に、イタリア人のエルサ・スキャパレリがパリにやって来て、モオドを創った。たとえば「ショッキング・ピンク」などを。
1920年代に、アメリカ人のアーネスト・ヘミングウェイがパリにやって来て、小説を書いた。これが後の傑作となるのです。
1920年代に、もし「パリ」がなかったなら、文豪ヘミングウェイは生まれていたでありましょうか。
こんなふうに考えてみると、やはり「パリは藝術の都」だと、納得させられてしまいます。

1930年代には、ロバート・キャパの例があるのです。「ロバート・キャパ」は、1930年代のパリで、誕生しています。
ロバート・キャパは、1913年10月22日、ブタペストに生まれています。その時の名前は、アンドレ・フリードマンだったのです。
アンドレ・フリードマンがパリにやって来たのは、1933年。アンドレがちょうど二十歳くらいの時に。
1934年の9月。ジモン・グッドマンが、パリに来て、アンドレ・フリードマンと会っています。
ジモン・グッドマンは、写真におけるアンドレの師匠だった人物。
ジモンは、パリに、広告写真を撮りに来たのです。それで、ジモンはアンドレに言った。

「広告写真のための美人モデルを探して欲しい。」

アンドレはぴったりの女性を、発見。「ラ・クーポール」のカフェで、コーヒーを飲んでいた、ルート・ツエルフを。
ルート・ツエルフは女優のような顔立ちで、モデルになることを、引き受けてくれて。
撮影当日、ルート・ツエルフはモンパルナスの広場に。友人のゲルダと一緒に来てくれた。
このゲルダ・ポホリレスに戀したのが、アンドレだったのです。
アンドレに、「ロバート・キャパ」の名前を考えたのは、ゲルダ・ポホリレスだったのであります。
ゲルダは「ロバート・キャパ」の名前にふさわしく服装も変えるように。スーツにネクタイを結ばせた。こうして「ロバート・キャパ」が生まれたわけです。

「………日本人の友人がロンドンで買ってくれたレインコートを着ていた。おまけに彼はフェルトの帽子までかぶっていた。」

リチャード・ウィーラン著『キャパ その青春』には、そのように出ています。
ここでの「彼」がロバート・キャパであるのは、言うまでもないでしょう。
では、「日本人の友人」とは誰なのか。川添浩史。今もある「キャンティ」を開いた人物。その時代の川添浩史は、パリ遊学中だったのです。
川添浩史は、なにくれとなくキャパの面倒を見ていたらしい。キャパを「毎日新聞」パリ支局に紹介したのも、川添浩史でありました。

「ロンドンで買ってくれたレインコート」。

まったくの想像ですが、バーバリー製ではなかったでしょうか。川添浩史がロンドンでレインコートを買うなら、バーバリーの可能性が高いでしょう。

英国のトオマス・バーバリーが考案した防水地なので、「バーバリー」。
どなたかギャバジンでスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。

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