マンドリンは、楽器のひとつですよね。弦楽器。そもそもはイタリア生まれなんだそうです。
このイタリアでのマンドリンがアメリカに伝えられるのが、1880年代のことであったと考えられています。
今、ブルーグラスにマンドリンが欠かせないのも、そんな歴史的背景があるのかも知れませんが。
マンドリンが日本にもたらされたのは、明治三十四年(1991年)のこと。ヨオロッパに留学していた比留間賢八が持ち帰ったのが、最初。やがて比留間賢八はマンドリン教室を開いてもいます。比留間賢八のお嬢さまが、比留間きぬ子で、マンドリン奏者として活躍されたお方。
比留間賢八からマンドリンを習ったのが、当時華族だった徳川義親。あるいは作家の里見
敦、画家の藤田嗣治、萩原朔太郎。萩原朔太郎と藤田嗣治は、同い年だったようですが。
萩原朔太郎は、明治三十六年に、銀座の「十字屋」で、マンドリンを買い求めています。それは「十字屋」が三丁輸入したうちのひとつだったとか。
「頸から襷掛けにしたバンジオーと云ふ楽器を取下して壁に掛けると、他の一人は小型のマンドリンをば脇に抱えたまゝで、」
永井荷風は、明治三十九年に発表した『あめりか物語』の中に、そのように書いています。これはニュウヨークの酒場での見聞として。
荻原朔太郎は、比留間賢八のみならず、イタリア人、アドルフォ・サルコリについてもマンドリンを教えてもらっています。
「僕の青年期のすべての歴史は、全く音楽のために空費したやうなものであつた。」
萩原朔太郎は、『音楽について』と題する随筆の中にそのように書いています。
萩原朔太郎は大正のはじめ故郷の前橋に帰って、「ゴンドラ洋楽会」を結成しています。この「ゴンドラ洋楽会」の集会所として、洋館を増築してもいるとのことです。朔太郎はもし詩人になっていなかったなら、音楽家になっていたのではないか。そんなふうにも思えてくるほどに。
もっとも朔太郎は多趣味でもありまして。マンドリンの外にも、写真にも凝っているのですね。マンドリンよりも前の明治三十五年から朔太郎は独学で写真を学んでいます。当時のことですから、撮影から現像焼き付けまで、全部自分でやっているのです。
「僕は今でも、昔ながらのステレオ・スコープを愛蔵してゐる。」
昭和十四年に発表した『僕の写真機』に、そのように書いています。若い頃の朔太郎は、立体写真に夢中になったことがあったらしい。
今、遺されている朔太郎の写真に、ソフトをかぶり、黒いマントを羽織った朔太郎の写真があります。これは朔太郎のみならず、明治から大正にかけて、マントは大流行したものです。
どなたか大正時代のマントを復活させて頂けませんでしょうか。