花森で、編集者でといえば、花森安治ですよね。いうまでもないことですが、花森安治は、『美しい暮しの手帖』を創刊した人物であります。
その花森安治について、清水達夫はこんなふうに書いています。
「表紙から奥付まですべて花森カラーを一色の編集ぶりで、広告を一切のせないという方針をつらぬいた。雑誌は人間であるというアーノルド・ギングリッチの言葉は、そのままこの「暮しの手帖」にもあてはまる。「暮しの手帖」は花森安治そのものだったのである。」
清水達夫は、常盤新平著『アメリカの編集者たち』の、「解説」に、そのように書いています。
清水達夫は、大正二年のお生まれ。明治四十四年生まれの花森安治とは、三つ違い。清水達夫は、『平凡』の創刊者。今の「マガジンハウス」の創立者でもあります。人は清水達夫のことを、「雑誌の神様」と呼んだものです。事実、その通りでしたから。
清水達夫の「解説」に出てくる、アーノルド・ギングリッチが、
『エスクワイア』の創刊者であるのは、申しまでもないでしょう。
清水達夫がこの「解説」で言いたかったのは。
「雑誌は編集者によって創られる」
そのひと言だったでしょう。「雑誌は編集者によって創られる」。
清水達夫は、そのように考えた。というよりも、「行動」した。
花森安治もそうであったし、アーノルド・ギングリッチもそうであったし、常盤新平もそのように思っていた。だからこそ、常盤新平は、
『アメリカの編集者たち」を書いたのです。
古今東西の偉大なる名編集者が、「雑誌は編集者によって創られる」と、考えている。もし、そうであるなら、私たちも、もう一度、この言葉をかみしめてみても良いのかも知れませんね。
常盤新平著『アメリカの編集者たち』には、フランク・クラウニンシールドのことも出てきます。
フランク・クラウニンシールドは、1920年代に、『ヴァニティ・フェア』の編集長だった人物。ごく控えめに申しますが、1920年代の『ヴァニティ・フェア』はアメリカでもっとも洒落た雑誌でありました。
なぜか。編集長のフランク・クラウニンシールドが、当時としても際立った洒落者であったから。他に理由はありません。
フランク・クラウニンシールドは、原稿に手を入れるのに、金色の鉛筆を使ったという。
1920年頃。『ヴァニティ・フェア』の、年間広告料金、五十万ドルに達した。今の貨幣価値なら、五十億円ほどでもあろうか。
当時のフランク・クラウニンシールドの週給、三百ドル。これは破格の給与であったらしい。もし、週給三百万円と考えるなら、たしかに羨ましい数字ではありますが。
では、経営者のコンデ・ナストはどうしてフランク・クラウニンシールドを『ヴァニティ・フェア』の編集長に採用したのか。ブート二エール。
フランク・クラウニンシールドはいつもニュウヨークの街を、新鮮な飾り花をボタン穴に挿して歩いていたから。