アカデミーは、アルパカのことですよね。学びの園なので、「学園」。academy と書いて、「アカデミー」と訓みます。
もともとのアカデミーは、プラトンと関係があるんだそうですね。紀元前287年頃、アテネ郊外の「アカデメイア」の森に開いた学園だったので、後に「アカデミア」の言葉が生まれるようになったんだとか。
プラトンの本に、『シンポシオン』(饗宴)があります。アカデメイアでの学びは、時にワインを傾けながら、語り合うこともあったという。学びの園の理想でもあったのでしょう。
今のフランスに「アカデミーフランセーズ」があるのは、ご存じの通り。緑色の大礼服が会員であることを示す正装になっています。
アカデミーで映画となりますと、「アカデミー賞」でしょうか。毎年のアカデミー賞はTVでも中継されるほど。このアカデミー賞のTV中継は、1953年3月19日に、アメリカのNBCがはじめたという。
なぜ、1953年だったのか。それはアカデミー賞の二十五周年の節目でもあったからです。
アカデミー賞、そもそものはじまりは、1927年のことだったと考えられています。当時、MGM映画の社長だった、ルイス・B・メイヤーの提案によって。1927年1月。ルイス・B・メイヤーは三人の友人を自宅に招いて。その三人とは、映画監督のフレッド・ニブロ、俳優のコンラッド・ネイゲル、映画協会理事長のフレッド・ビートソン。ここでルイス・B・メイヤーは、一席ぶった。「さらなる映画界発展のために」。
それがやがて「アカデミー賞」につながってゆくのですが。
1927年5月11日。「ビルトモア・ホテル」に三百人の招待客を集めて。この時、はじめて「アカデミー賞」の企画が発表されたわけです。
第一回のアカデミー賞は、1928年5月16日。「ルーズベルト・ホテル」で。この時には、映画『つばさ』が作品賞に選ばれています。ただし、この時にはまだ「オスカー賞」の呼び方はありませんでした。
「オスカー賞」の由来については、諸説あるようですが。
当時、「アカデミー賞」の事務局員だった、マーガレット・へリックが、「私のオスカーおじさんにそっくり」と言ったのだとか。
彼女のおじさん、オスカー・ピアースに似ていたので。
実際のオスカー像は、高さ34、3センチ。重さ8、86キロ。厚い金メッキがほどこされた像であるそうですが。
1935年の「女優賞」は、クローデット・コルベール。映画『或る夜の出来事』で、クラーク・ゲイブルと共演して。
クローデット・コルベールは、アカデミー賞の報せを、ユニオン・ステイションの近くで聞いて。その時、「サンタ・フェ鉄道」は、発車時刻を遅らせて、ビルトモア・ホテルの近くまで乗せてくれたという。
1948年度の「衣裳デザイン賞」は、ロジャー・K・ファーズと、ドロシー・ジーーキンズ。これはものクローム映画とカラー映画に分かれていたので。
「衣裳デザイン賞」はどうもこの年からはじまっているらしい。
1949年の「衣裳デザイン賞」は、イーディス・ヘッドに。映画『女相続人』の衣裳が評価されて。
1950年には、『イヴの総て』の衣裳で、やはりイーディス・ヘッドが。
イーディス・ヘッドはもっとも多くアカデミー賞を受けている衣裳デザイナーなのです。
アカデミーが出てくるミステリに、『007は三度死ぬ』があります。1985年に、アンドレイ・グリシャシキが発表した物語。
「その日は正午までにアカデミーへ出かけることになっていたので、黒っぽいスーツを身につける。」
これはブルガリアの諜報部員、ザーホフの様子として。
また、『007は三度死ぬ』には、こんな一節も出てきます。
「007はワイシャツの上に軽いアルパカのイヴニング・スーツを着て、ブラック・タイを締めていました。これはジェイムズ・ボンドがパーティーに出る時の着こなし。
「アルパカ」alpaca
はもともと動物の名前。ラクダ科の小動物。毛並みが良質なので、珍重されたものです。光沢があり、薄い生地なので、夏背広や裏地によく用いられたものです。
どなたかアルパカのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。