ダニエルは、人の名前にもありますよね。
ふつうDaniel と書いて「ダニエル」と訓むことが多いようですが。
たとえばイギリスの作家では、ダニエル・デフォーがいます。『ロビンソン・クルース物語』の作者であること、言うまでもありません。
江戸時代に『ロビンソン・クルーソー物語』を読んだお方に、新島 襄がいます。
「その中に、「ロビンソン・クルーソー物語」があった。それは私の心に海外渡航の願望を起した。」
新島 襄は自伝『わが人生』の中に、そのように書いてあります。
これは新島 襄が二十歳の時の話として。つまり文久三年(1863年)のこと。
友人のひとりに、本をたくさん持っている家があって。その家で借りて読んだと、書いているのですね。
当時すでに『漂荒記事』という本が出ていたとのこと。これはオランダ語版の『ロビンソン・クルーソー物語』で、そのオランダ語から日本語に直した書物だったらしい。
新島 襄は1865年(慶應元年七月二十日に、アメリカのボストン着。そこで、『ロビンソン・クルーソー物語』を一冊買い求めたという。
「あれは御承知の如く漂流記である。無人島に上がって、如何に単独な生活を維持しやうかと云ふのが主人公の目的である。」
夏目漱石は『文學評論』の中に、そのように書いています。もちろん、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー物語』について。
この漱石の『文學評論』は、明治三十八年からの、今の東大での授業をもとにした内容になっています。
漱石の本業は十八世紀の英国文學でしたから、講義にデフォーの『ロビンソン・クルーソー物語』が出てくるのも、当然のことだったでしょう。
ダニエル・デフォーは1660年に、ロンドンで生まれています。ただ、その誕生日までは分っていません。
お父さんの名前は、ジェイムズ。ろうそく製造業だったそうです。当時のことですから、獣脂を使ってのろうそくだったらしい。
その頃のロンドンの人口は、およそ五十万人だったとか。
お父さんのジェイムズは息子を聖教者にしたいと考えていて。ダニエルも一時期は聖書の勉強したそうですね。
『ロビンソン・クルーソー』を読んでいますと、イエスへの祈りが何度も出てきます。これは青年時代の勉強と関係しているのではないでしょうか。
ダニエル・デフォーは二十二歳の時。靴下の販売で成功したとのこと。いずれにしても当時のダニエル・デフォーが、毛糸や編物を仕事にしていたのは、間違いないでしょう。
ダニエル・デフォーが『ロビンソン・クルーソー物語』を発表したのは、1719年のこと。デフォー、五十九歳の時に。
この時代の英国の平均寿命は、三十九歳だったとか。そこから考えますと、デフォーは遅咲きの作家だったことになるでしょう。
では『ロビンソン・クルーソー物語』の反響はどうなったのか。売れた。大いに売れた。海賊版が出るほどの人気だったそうですね。
ダニエルが出てくる『日記』に、『サミュエル・ピープスの日記』があります。
「ベイリーもファーザーも留守だった。」
1668年1月13日、土曜日の『日記』に、そのように出ています。
ここでの「ファーザー」は、造船業の、ダニエル・ファーザーのこと。サミュエル・ピープスの本業は海軍省の役人でしたから、船とは大いに関係があったでしょう。
また、1668年3月26日の『日記』に、こんな文章が出てきます。
「色つきのタフタのスーツをまとって、今日はひどく優雅だ。」
これは奥方の着こなしとして。
「タフタ」taffetas は、横畝の美しい絹地。もともとはフランス語。でも、英語としても1373年頃から用いられています。
「彼は裏地に琥珀織りと薄絹織りとをしつらえた緋色と青味がかった灰色の服に身をくるんでいました。」
チョーサーの『カンタベリー物語』に、そのような一節が出ています。ここでの「彼」とは、ある医者のこと。
「琥珀織り」。原文では「タフタ」になっています。
どなたかタフタのスーツを仕立てて頂けませんでしょうか。