ドは、フランス語の前置詞にもありますよね。
de と書いて「ド」と訓みます。
日本語の「の」にに、近いのでしょうか。英語の「オブ」にも似ているのかも知れませんが。
たとえば、オノレ・ド・バルザック。「貴族であるところのバルザック」。そうも解せるでしょう。
バルザックは自分のほんとうのお父さんは貴族だった。そんなふうに考えていたらしいので。
小説の題に「ド」のつくものに『パルムの僧院』があります。
フランスの作家、スタンダールが1839年4月6日に発表した長篇。
原題は、『シャリュトリューズ・ド・パルム』になっています。それで、『パルムの僧院』なんですね。
Parma はイタリアの地名。「パルマの生ハム」有名でしょう。パルマのフランス訓みが、「パルム」なんですね。
スタンダールは当時、イタリア駐在の領事だったことがあって。イタリアの古書をずいぶん集めたんだとか。
このイタリアの古書からスタンダールは『パルムの僧院』の案を得たという。
スタンダールは『パルムの僧院』を短い期間で書きあげています。もう少し正確に申しますと、「語った」のですが。
『パルムの僧院』は大部分、口述筆記だったので。
門番には、「主人は狩りに出ています」と言わせておいて。人にも会わず、ただひたすら口述筆記の毎日。
1838年11月4日に口述筆記をはじめて。それというも、五十五歳のスタンダールは、神経痛に悩んでいましたので。
そして同じ年の12月26日に『パルムの僧院』を完成させたそうです。驚くべき速さといって良いでしょう。
合計、五十三日間で、あの大作を仕上げたのですからね。
『パルムの僧院』の印税は、五年間で2500フランだったという。
スタンダールの『パルムの僧院』を読んで、感動したのが、バルザック。
「最近たまたまイタリアン通りで会って『パルムの僧院』に賛辞を呈する機会をえた。」
このようにはじまって、バルザックは『パルムの僧院』を絶賛しているのです。
『巴里評論』9月23日紙上で。
これに対してスタンダールは、バルザックにお礼の手紙を書いています。
「あなたは街に見すてられた一人の孤児に過大な憐憫をお感じになりました。」
このように書きはじめられる長文の手紙を。
1840年10月16日の日付で。
なぜ、10月16日なのか。スタンダールが『巴里評論』を手にしたのが、10月15日だったので。
スタンダールの『パルムの僧院』を読んでおりますと。
「彼の将校肩章はウールだった。そして上着のラシャ地はばらばらにならないよう、袖裏に縫いつけてあった。」
これは主人公のファブリスが戦さに負けて、逃げる途中の話として。敵の軍服を眺めている場面。
袖に裏地が付いていたのでしょう。
「裏地」は、ライニング。フランスなら、「ドゥブリエール」doublure でしょうか。
どなたかドゥブリエールの映える上着を仕立てて頂けませんでしょうか。