旅とタッサー

旅は、トラヴェルのことですよね。travel と書いて「トラヴェル」と訓みます。
英語としての「トラヴェル」は1300年頃から用いられているんだそうですね。
これはフランス語の「トラヴァイユ」と関係があるんだとか。
トラヴァイユそもそもの意味は、「労苦」。
今の時代の旅は、楽々快適。でも、大昔の旅は「労苦」の連続だったのでしょう。
日本でも同じことで。旅に出るには、「水盃」を。これはもう二度と会えないかも知れない。そんな意味がこめられていたのでしょうね。
1936年に、世界一周の旅に出た作家に、ジャン・コクトオがいます。コクトオ、四十六歳の時に。
ではなぜ、コクトオは1936年に世界一周しようと思ったのか。
これは実は「パリ・ソワール」紙の企画だったのです。
ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』が出たのが、1873年。その六十三年後に、もう一度世界一周したなら、どうなるのか。そんなところから話がはじまって。
この話に乗ったのが、コクトオだったのですね。
コクトオの旅のお供は美青年のマルセル・キル。当時、二十四歳だったという。
この時の紀行文は、『僕の初旅・世界一周』に納められています。日本語訳者は、堀口大學。
堀口大學はコクトオが日本に立ち寄った時の通訳も。日本での案内人をも勤めています。
コクトオもまた八十日間で世界一周するつもりだったようですね。
まず巴里からロンドンへ。ロンドンから船で、ブリンディジに着き、ブリンディジから、スエズへ。スエズからボンベイ。ボンベイからカルカッタ。カルカッタから香港。香港から横濱へ。
横濱からサンフランシスコ。サンフランシスコからニュウヨークへ。ニュウヨークからロンドン。
これでざっと八十日間。
この旅の途中、香港から横濱に向う船の中で、チャップリンに会っています。

「僕には英語が出来ない。チャップリンはフランス語が出来ない。それだのに、僕らは何の努力も要らなかった。」

コクトオはそのように書いています。言葉をこえて意思疎通ができた、と。
日本に着いたコクトオは、藤田嗣治や堀口大學の案内で、歌舞伎見物にも。
六代目尾上菊五郎の『鏡獅子』を観ています。
その後の楽屋には多くの記者がおしかけて。コクトオと菊五郎とが握手しているところを写真に撮りたい。
その時、コクトオはどうしたのか。

「彼の手を握ると見せかけて、実は一、二ミリ離しておく。」

コクトオは随筆『わが青春期』にそのように書いています。
もちろん菊五郎の手の白粉を気遣って。
菊五郎は翌日、使いの者をたてて感謝の気持を伝えたという。
コクトオの随筆『わが青春期』は、1935年の発表。日本語訳は、堀口大學。
『わが青春期』は、主にコクトオの少年時代が中心になっているのですが。この中に。

「日曜日の朝になると、絹紬の背広に、麦藁帽を阿弥陀にかぶり、片手に小さな桜草の花束を持った位の祖父は、」

そんな文章が出てきます。
ここでの「絹紬」(けんちゅう)は、「タッサー」tussah のことではないでしょうか。
細く、美しい、横畝が走った絹地。
どなたかタッサーの上着を仕立てて頂けませんでしょうか。