典雅流麗地
ジャカードは紋織のことである。「ジャカード機」と呼ばれる特別の織機によって仕上げられるので、ジャカードという。ジャカードは機械の名前でもあり、生地の名前でもある。また、「ジャカード編」としても使われる。
男物のネクタイにはジャカードが多い。ネクタイを大きくふたつに分けるなら、プリント柄とジャカード柄とになる。より立体的な、より緻密な織柄は、まず例外なくジャカードである。私たちは毎朝のようにジャカード織のタイを結んで、出かけているわけだ。
ジャカードは英語。フランスでは「ジャカール」 jacqard 。というよりもフランスのジャカールを英語読みにして「ジャカード」となったものである。
「ジャカード機とは紋織機械の一種。一七九〇年佛人ジャカールが發明したのでこの名前がある。縦針と横針とを主體とし、紋紙から横針を經て縦針に運動を傳へ……」
三省堂編『婦人家庭百科辞典』には、このように詳しく説明されている。ジャカードは少なくとも戦前からよく知られていたものと思われる。
文中の「紋紙」はジャカードの命である。丸い小穴を開けた厚紙のこと。この小穴の指示によってどの糸がどこに配されるかが決定される。紋紙は高い位置に置かれて、ここから糸を操る。この紋紙の「頭脳」によって、複雑微妙な織が完成するのである。
その意味でのジャカードはコンピューター以前のコンピューターでもあった。事実、ジャカードから生まれたものに、自動ピアノがある。その理屈はほぼ同じなのだ。
広く知られているように、ジャカードはジョセフ・マリー・ジャカールの名前に由来している。ジャカールは1752年、リヨンに生まれ、1834年、リヨンに没している。ジョセフ・M・ジャカールがジャカード機を発明したのは、必然であった。ジョセフはリヨンの絹織物業の息子として生まれている。幼い頃から、緻密な織の苦労を見てきただろうから。
ジョセフ・ジャカールはすぐに絹織物に就いたわけではない。若いころには製本屋で働いたという。そこで製本、印刷、活字鋳造について学んだらしい。
ジョセフが機械による紋織に着手したのは、1790年ころであったという。そのひとつの動機は、パリで、ボーカーソンの織機を見たことによる。最初は、ボーカーソンの織機を改良できないかと、考えたのである。
そこから試行錯誤を重ねて、1800年に第一号機を完成。というのは、1801年の、パリ産業博覧会に出品しているからである。
「ジャカール機」としての特許を得たのが、1804年のことである。
ただし「ジャカール機」がはじめから理解されたわけではない。当時のリヨンの織手からは仕事を奪う魔の機械と映った。それで初期のジャカール機は、ローン川に投げ込まれたという。
1806年になって、ジャカード機はフランス政府によって買い上げられることになる。ジョセフ・ジャカールには年金が支払われることになったのだ。
1812年には、リヨンを中心に、一万二千台のジャカール機が稼働していたとのことである。
「ジョゼフ・マリー・ジャカールはリオン南部ウーラン町の産 (一七五二~一八三四 ) でメチエ・ジャカールの發明はナポレオン一世の時代であった。その名聲がアメリカまで聞え高級で招かれたにも拘らず固辭し、貧しい一機械工として郷土を去らず一生涯機械の完成に努力したのである。」
瀧澤敬一著『シャンパンの微酔』 (昭和二十九年刊 ) の一文。章題は、「ジャカールの国」になっている。
著者、瀧澤敬一は長くリヨンに住み、リヨンに骨を埋めた人物である。リヨンの町にはジャカールの銅像があり、毎日のようにその前を通ったとも書いている。絹の町リヨンにとってジャカールが恩人であったことは、疑い様がないだろう。
明治五年、神戸港からフランスに向けて船出した三人の若者がいた。井上伊兵衛、佐倉常七、吉田忠七の三名。
これは当時、京都府知事であった、長谷信篤の大英断によるものであった。リヨンのジャカールを学ばせようとしたのである。井上伊兵衛をはじめ皆、京都、西陣の出であったのは言うまでもない。
明治五年十一月十七日、神戸港を発って、マルセイユへ。マルセイユからは陸路、リヨンへ。リヨンではやはり織元の、ジュール・リズリー家の世話になったという。リズリー家はリヨンの、トローザンにあったらしい。
井上伊兵衛たちは一年近くリヨンでジャカールを学び、明治六年に帰国。この時、知識だけでなく、ジャカール機をも持ち帰っている。明治六年十二月二十八日に神戸港に着いている。今なお、西陣でジャカードが織られるのは、この先見の明があってのことである。
ただ、吉田忠七ひとりはさらにリヨンに残って研究。明治七年になって帰国。フランス船「ニール号」の船客となる。が、ニール号は伊豆沖で沈没。還らぬ人となったのである。明治七年七月二十一日のこと。
「洋品店で襟付の黒いシャツとジャカードのスェーターの組合わせを買った。」
石坂洋次郎著『あじさいの歌』の一節。これは世話になった河田藤助への贈物として。「組合わせ」ということは、セットになっていたのだろうか。いずれにしても「ジャカード編」のスェーターであったのだろう。