シャンソンは、いいものですね。好きなシャンソンの歌を聴くと、心が蕩けてしまいます。
若い頃にシャンソンを聴いて、それでシャンソン歌手になった人がいます。そりゃ、いるでしょう。シャンソン歌手はみんなそうではないかと、思われるほどに。
でも、そのお方はもともとオペラ歌手などを夢見ていたのですが、17歳の時、偶然、シャンソンを耳にして。
石井好子であります。石井好子はたまたま友だちの家で、シャンソンのレコードが流れていて。それに聴き惚れた。
では、そのシャンソンは、なんて曲だったのか。『聞かせてよ、愛の言葉を』。もちろん、リシュエンヌ・ボワイエの熱唱。
後に、石井好子はめでたくシャンソン歌手になって。巴里でも暮すように。その時、ご本人のリシュエンヌ・ボワイエにも会っています。
リシュエンヌ・ボワイエは、1903年の巴里生まれ。舞台ではいつも淡いブルーのドレスを着て、『聞かせてよ、愛の言葉を』などを歌ったんだそうです。ドレスの頸元に小さなスカーフを巻いていて。そのスカーフを歌いながら、ほどいて、手で遊ぶ。その仕種がトレードマークのようになっていたという。
『聞かせてよ、愛の言葉を』は、1930年の大ヒット曲。
石井好子よりも少し後で、『聞かせてよ、愛の言葉を』を聴いたのが、武満 徹。1945年のこと。1945年は、戦争末期。武満 徹は、十五歳。勤労奉仕先の、埼玉の、防空壕の中で、『聞かせてよ、 愛の言葉を』が流れていた。
武満 徹は、『聞かせてよ、愛の言葉を』を聴いて、突然、音楽の道へ進む決心を。
「戦争が終わったなら、音楽家になる」と。
事実、戦争が終わってからの武満 徹は、音楽ひとすじの道を歩く。
昭和二十九年。武満 徹の家に、ピアノが届けられる。武満 徹はまだ無名で、見ず知らずの黛 敏郎からの贈物として。
その頃、武満 徹の家にはピアノがなくて。そのことを芥川也寸志から伝え聞いた黛 敏郎がプレゼントしたものです。
後の時代に。ある音楽番組で、武満 徹と、黛 敏郎とが舞台に立って。たまたまピアノの話になった時。武満 徹は下を向いたまま、涙したという。
1981年。武満 徹は、カリフォルニア大学の客員教授に。この時、各地を回って、講演もしています。でも、ほんとうは日本に帰りたい。はやく帰って、作曲にとりかかりたい。
でも、奥様はもっと海外にいたい。武満浅香は。そこで、武満 徹の提案。
「ねえ、パリで、シャネル・スーツ買ってあげるから、日本に帰ろうよ」。
武満浅香は、パリでシャネル・スーツを買ってもらって、帰国。
「シャネル・スーツを」
これもまた、「聞かせてよ、愛の言葉を」の、一例かも知れませんね。
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