僕という言い方がありますよね。いや、男の子は多く「僕」を使います。
でも、僕といえばいいのか、俺といえばいいの、それとも私といえばいいのか、悩みに悩むものです。
いっそ、昔のように、「自分」といってみたり。しかし自分のことを「自分」と称するのは、日本語として正しいのか、正しくないのか。
悩みに悩んだ末に開き直って、「おいら」の言葉を使う場合もあります。石原裕次郎の映画、『嵐を呼ぶ男』では、「俺らはドラマー」となっています。1957年の映画。当時、この主題歌は、たちまちにして60万枚売れたらしい。
でも、「俺等」とは、何か。自分一人のはずなのに、どうして複数形になるのか。
まあ、ざっとこんなふうに、男の子の人称はややこしいのであります。人称がややこしいということは、すなわち男の子位置が常にややこしいということなんでしょう。
むしろ今の時代、美しい女の子が、「ボク」と言ったほうが可愛いのではありませんか。
それとまったく同じことが、小説を書く時の作家にも言えるでしょう。主人公が男だとして、彼に人称をどう言わせるのか。「おいら」なのか、「わたくし」なのか。「おいら」も「わたくし」も、恋愛小説には、不向きかと思われるのですが。
そこで、ひとつの苦肉の策として、男の名前そのものを使う。たとえばの話、「康吉」だとか。これなら、「僕」か「私」かで迷わなくてすむわけですね。
「康吉」が出てくる小説に、『われら戦友たち』があります。柴田 翔が、1973年に発表した物語。『われら戦友たち』の中に、
「神田十七丁目の一歩裏に入ったところにある飯山ビルの大ホールは、背広、セーター、ポロシャツとさまざまな恰好の若い男の子たちと………………。」
そんなふうに描かれています。
もう一度「若い男の子」に返って、ポロ・シャツを着てみたい。さて、そのときに。「ボク」なのか、「わたし」なのか、「オイラ」なのか。悩みは尽きません。