ローラースケートは、小さな車の付いたスケートですよね。スケートはふつう氷の上を滑るものですが。ローラースケートは、道の上でも滑ることができます。
つまり、アイス・スケートに対しての、ローラースケートなのでしょう。何であろうと、氷の上では滑りやすい。これはおそらく古代人も識ってはいたでしょう。でも、実際にアイス・スケートが一般的になり、スポーツのひとつとなるのは、十九世紀後半のようです。
靴の底に車を付けるのは、十八世紀の、英國において始まったという。1760年頃、ジョン・ジョセフ・マーリンなる人物が考案したんだとか。
ローラースケートが出てくる小説に、『ある心の風景』があります。大正十五年に、梶井基次郎が発表した短篇。
「新京極に折れると、閉てた戸の間から金盥を持つて風呂へ出かけてゆく女の下駄が鳴り、ローラースケートを持ち出す小店員……………………。」
その頃の京都でも、ローラースケートが流行っていたのでしょうか。
大正十五年は、昭和元年でもあって。この年の十二月。梶井基次郎は、伊豆の湯ヶ島温泉に、静養に。梶井基次郎は胸の病を持っていたので。最初、「落合楼」の客に。やがて、「湯川屋」に移っています。
12月31日には、「落合楼」。明けて1月1日には、「湯川屋」へ。これは当時「湯本館」にいた川端康成の紹介だったそうですね。
川端康成はちょうど『伊豆の踊子』の執筆中。梶井基次郎は、川端の『伊豆の踊子』の校正を手伝ったりもしたという。
「銀座でパンを買ふつもりをしてゐましたら、其の家は閉めてゐました、立派な珈琲店にフランスパンが並んでゐたので入つて半斤買ひました。八銭です。」
大正十四年二月十六日付け。京都の、近藤直人宛の手紙の一節。大正十四年のはじめ。銀座ではもうフランスパンを売っている店があったんですね。八銭で。これまた、貴重な資料であるかも知れませんが。梶井基次郎は、買ったフランスパンに、バターを添えて食べています。
ローラースケートではなく、ローラーブレードが出てくる小説に、『リスボンへの夜行列車』があります。2004年に、パスカル・メルシェが発表した物語。
「ローラーブレードを履いた男が近づいてくる音が、聞こえなかったのだ。」
それで、物語の主人公、ライムント・グレゴリウスにぶつかるのですが。では、古典文献学者の、グレゴリウスはどんな服装なのか。
「編目の粗いタートルネックのセーターの上に、革の肘当てのついた着古した上着…………………。」
タートルネックは、ややアメリカ式の表現。イギリスではふつう、「ロール・ネック」と言います。
昔の日本語では、徳利首。
「上は男もののようなトックリ首のセーターを着、下は色あせた紺のジーパン………………………」。
昭和四十五年に、高橋和巳が発表した『白く塗りたる墓』にも、そのように出ています。
とっくり首なのか、タートルネックなのか、ロール・ネックなのか。
もうローラースケートをする年でもありませんが。ロール・ネックのスェーターは、まだまだ。