エイスケとエイト・ボタン

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エイスケで、作家でといえば、吉行エイスケでしょうか。吉行あぐりの夫、吉行淳之助の父。もちろん、吉行和子、吉行理恵のお父さんでもあります。
吉行エイスケは、明治三十九年五月十日。岡山に生まれています。本名は、栄助。つまり「吉行エイスケ」は筆名なのです。

「次のとき、父は白い背広でやって来た。夏だったので開けはなした障子を通りこして、隣の部屋へ行ったきりなかなか戻ってこない。」

吉行和子は『白い背広の父』と題する随筆のなかに、そのように書いています。
吉行エイスケは、昭和十五年に若くして世を去っていますから、それより少し前の話でしょう。
場所は、伊東。吉行和子は伊東で、療養中。以前、吉行エイスケは着物姿だったので、和子は「洋服で来てね」と、頼んだ結果だったのですね。
夏で、白でというのですから、たぶん「白麻」だったものと思われます。
栄助は栄助でも、飯島栄助。飯島栄助は、天保十一年に、近江の彦根に生まれています。天保十一年は、西暦の1840年のことであります。
飯島栄助は、安政五年、江戸に。江戸からやがて、横濱へ。慶應元年のことです。飯島栄助は、二十六歳の時。懐中には、一両二分の金が入っていたという。
当時の横濱は開港したばかりで、異人さんの多い町でもありました。そこで、飯島栄助が目をとめたのが、ガラス壜。むろん異人にとってはいらないもの。空壜。栄助をこれを集めまして、「ギヤマン徳利」。ギヤマン徳利と名づけて、大いに富を得たんだそうですね。
次に栄助が扱ったのが、西洋紙。西洋紙で儲けて、石鹸。石鹸で儲けて、フランネル。
こうして飯島栄助は、1860年に、「近江屋」を開いています。その頃の「近江屋」の広告を眺めますと。英語で、「ストロー・ハット、シャツ、カラー、カフ、シャツ・フロント………………………」。
などの文字が並んでいます。
飯島栄助の、「近江屋」もまた、その時代の唐物屋のひとつでもあったのでしょう。
飯島栄助とほぼ同じ時代の横濱に、三田善太郎がいました。その頃の横濱に下水道を設置したのが、三田善太郎だったのです。都市計画の技師でありました。
今に遺された三田善太郎の写真を眺めますと。ハード・カラーのシャツに、ダブル前のスーツを着ています。それは、エイト・ボタン型。明治期の両前に、エイト・ボタン型が少ないなかったことを物語るものであります。
エイト・ボタンの上着を着て、吉行エイスケの本を探しに行くとしましょうか。

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