ターナーとタモシャンター

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ターナーで、画家で、といえば、英國の画家でしょうね。
ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナーは、1775年4月23日に、倫敦に生まれています。お父さんのウイリアムは、コヴェントガーデンのバーバーだったと伝えられています。
画家のターナーは幼少の頃から、バーバーよりもペインターに向いていたらしい。1790年頃、「ロイヤル・アカデミー美術学校」に入っています。
ターナーはスケッチのための旅を好み、1791年以降、イングランドや、ウエールズの郊外を頻繁に訪れたという。
ターナーがはじめてスコットランドに赴いたのは、1801年のことです。1802年には、フランスにも。フランスでは当時のように「ルーヴル美術館」に足を運び、模写を行ったそうですね。
1834年。倫敦の国会議事堂が、火事。10月16日のことです。ターナーはすぐに舟を雇って、一晩中、テムズ川を行ったり来たり。この時、ターナーは十枚近くのデッサンを描いています。
1835年2月。ターナーは、『国会議事堂の火事 1834年10月16日』を展覧会に出品。それは当時のデッサンを会場に運び込み、その場で最後の仕上げをしたものだとか。今は、ロンドン「大英博物館」所蔵となっています。
イギリス人、ターナーを評価したひとりに、フランス人のゴンクールがいます。

「ああ、このサルーテ教会、この総督宮殿、この海、このバラ色の透明な空。すべが輝く宝石のように見える。

1891年『ゴンクール兄弟日記』8月12日のところに、そのように、書いています。
ターナーが出てくる小説に『ヘンリー・ライクロフトの私記』があります。1903年に、ジョージ・ギッシングが発表した物語。

「ターナーの風景画は見馴れた景色さえも捉え方がどこか普通とは違う。」

もちろん、物語の語り手、ヘンリー・ライクロフトの印象。ヘンリー・ライクロフトは、ギッシングの分身かと思われるので、ギッシン自身、そのように考えていたのでしょう。また、『ヘンリー・ライクロフトの私記』には、こんな描写も。

「『タモシャンター』の物語を軽快な詩に仕立てたロバート・バーンズも貧農の育ちだった。」

いうまでもなく『タモシャンター』は、1790年に、スコットランドの詩人、ロバート・バーンズが発表した長詩。「タモシャンター」は、シャンター村のタムといった意味。もう少し正確には、「タム・オ・シャンター」。このタムがかぶっていた帽子が、「タモシャンター」t am osh ant er 。
もっとも当時のスコットランドでの民族帽のひとつだったのですが。
さて、タモシャンターをかぶって、ターナーの画集を探しに行くとしましょうか。

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