藤村とドレッシング・ガウン

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藤村で、作家でといえば、島崎藤村ですよね。この場合にはもちろん、「とうそん」と訓みます。
どうして、藤村と書いて「藤村」なのか。島崎藤村の本名は、島崎春樹。それに対しての文号が、藤村。ですから「とうそん」となるわけですね。
島崎藤村の『千曲川スケッチ』はたぶんお読みになったことがおありでしょう。
島崎藤村は、巴里とも浅からぬ関係にあります。大正時代のはじめ。島崎藤村はある恋愛問題から、日本を出ています。大正二年、五月のことです。向かった先が、巴里だった。また、第一大戦中は、リモージュに疎開もしています。
疎開が終ってからは、ふたたび巴里に。結局、日本に帰ってくるのは、大正五年、七月のことです。少なくとも三年間はフランスに住んでいたことになります。
この時、巴里で島崎藤村に会った人物に、小泉信三がいるのですね。

「黒っぽい服を着た、眉の濃い藤村が、眼鏡の奥の目を伏し目にし、巻煙草の根もとを、人差指と拇指の尖で、下から摘んで吸いながら……………………。」

小泉信三の随筆、『わが住居』に、そのように書いています。文中「藤村」あるのが、島崎藤村であるのは、いうまでもないでしょう。
時代は、大正四年。場所は、巴里。小泉信三が住んでいたホテルと、島崎藤村の宿とが、わりあい近くだったので、若い小泉信三のところにも、遊びに来ていたのでしょう。
また、『わが住居』には、こんなことも。

「その店内で吾々は、ショコラ (チョコレエト ) で半月形その他のパンを立ちながら食べ………………」。

これは、朝。サン・ミッシェル大通りのカフェでの様子。
小泉信三は、大正四年に、ココアで、クロワッサンを召し上がっていたのでしょう。

「燃える火の暖炉があり、寛かなドレッシングガウンに身を包み、床に足の埋まるような敷物が敷かれていればなお結構である。」

小泉信三の随筆『炉辺の読書』には、そのように出ています。
うーん。ドレッシング・ガウンなんですね。さて、私に様になりますか、どうか。それが、問題ではありますが。

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