ボアは、「森」のことですよね。b o is と書いて、「ボア」と訓むんだそうです。
パリにも、「ブローニュの森」があります。「ボア・ドゥ・ブローニュ」。でも、最後まで、ボア・ドゥ・ブローニュとまで言わなくも、ただ「ボア」で通じたんだそうですね。
十九世紀のフランスでは、「ボアへ行こう」の言い方があったらしい。もちろんブローニュの森を指しているんですが。
実はこれ「決闘」のことだったんですね。ブローニュの森は「決闘」に都合の良い場所だったので。
十九世紀の男たちにはそれくらいに、「決闘」が身近かであったらしい。では、どうして、「決闘」なのか。
十九世紀の紳士は「名誉」を大切にしたので。もしも「名誉」が傷つけられたなら、「決闘」を申し込むことになっていたのです。そしてすべての「決闘」は、神によって判断される。そんなふうに考えられていたので、「決闘」はけっして珍しくはなかったのではあります。
でも、ボアはなにも決闘だけの場所でもないこと、申すまでもありませんが。自然が豊かで、空気が美味しい。
ボアがお好きだったお方に、黒田清輝がいます。明治に活躍した画家ですよね。明治期の位で申しますと、「子爵」でありました。
清輝と書いて、「きよてる」。これが、本名。清輝と書いて、「せいき」と訓みますと、画号になります。幼少の頃の通称は、「新太郎」。
明治十七年、黒田清輝はフランスに留学。十九歳の時に。フランスの法律を学ぶために。ところが巴里に着いて、法律を学ぶうちに、画家を目指すようになったお方なのです。そのあたりの事情は、『黑田清輝日記』に詳しく書かれています。これはたしかに「日記」でもあるのですが、書簡集でもあるのです。黒田清輝がお父さんお母さんに宛てた膨大な手紙が中心になっています。
「……このぐれと申ところはかわがあつたりなんかしてなかなかよいところです…………………。」
明治二十一年五月十八日付の、お母さんへの手紙の一節。
「グレー発信」となっています。
フランス留学時代の黒田清輝と、グレー村とは切っても切れない縁でつながっています。事実、黒田清輝はグレー村で多くの名画を描いているのですから。
ふだんは巴里で学校に通い、少しでも休暇がとれると、グレー村へ。グレー村で絵を描くために。
この「五月十八日付」の手紙は、黒田清輝がグレー村から投函した手紙としては、最初のものかと思われます。署名は、「新太より」となっているのですが。
黒田清輝は明治十七年から明治二十六年までの間、フランスに住んだわけですが、その滞在中、実に多くの旅に出ています。
「………なんにもしやれるにハおよびませんけれどもひとなみのようすをしてをらなけれバなりませんより……………………。」
明治二十二年六月二十一日の、母への手紙に、そのように書いています。
署名は、「新太拝」になっているのですが。
黒田清輝は母にも父にも、たくさんの手紙を送っています。明治のことですから、父へは漢文調の手紙。母へは、ほとんど平仮名の会話体になっているのです。
この「六月二十一日」の手紙は、巴里からのもの。やがて学校が休みになるので、「べるじつく」へ参りますとの、報告。
ここでの「べるじつく」は、ベルギーのことかと思われます。ベルギーには富裕な知人の、
「ばんはるとらん」氏がいて、そこに泊りに。
でも、「ばんはるとらん」の家ではあまり寛いだ恰好もできなくて、という内容になっています。
黒田清輝の「六月二十一日付」の手紙には、「自画像」が添えられて。
「………さてわたしがいなかにをるときのようすハこのとうりです……………………。」
その自画像を見ますと。大きな麦藁帽子に、シャツとズボン。肩に鞄を下げ、手にステッキを携えて。
ソフト・カラアのシャツには小型のボヘミアン・タイを結んでいます。
明治二十二年のボヘミアン・タイ。日本でのボヘミアン・タイを流行らせたのは、黒田清輝ではなかったかと、思えてくるほどです。
ボヘミアン・タイは、スカーフ状のネクタイ。スカーフをゆったりと蝶結びにしたスタイル。
大正九年に、芥川龍之介が発表した短篇『葱』にも、ボヘミアン・タイが出てきます。
「………猟服を着用して、葡萄色のボヘミアン・ネクタイを結んで……………………。」
これは藝術家の「田中君」の着こなし。明治から大正にかけてのボヘミアン・タイは、藝術家好みの装いだったようですね。
大正八年に、芥川龍之介が書いた『路上』にもボヘミアン・タイが出てきます。
「………その隣のボヘミアン・ネクタイも、これまた詩よりも女中に手をつけるのが……………………。」
それはともかく。明治末期から大正はじめにかけて、かなり若者の間でボヘミアン・タイが流行ったことが窺えるでしょう。
少なくとも黒田清輝はボヘミアン・タイのさきがけであったことは間違いないようです。
どなたか現代版のボヘミアン・タイを作って頂けませんでしょうか。