百合と浴衣

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百合は、花の名前ですよね。
また、どこの国でも美人の形容に使われたりするものです。

立てば芍薬 坐れば牡丹 歩く姿は百合の花

むかしはよくそんなことを言ったものです。
百合は英語で、「リリイ」l ily 。十九世紀の英國には、「リリイ」と呼ばれた女性がいました。
人呼んで、「ジャージー・リリイ」。あまりにもお綺麗なので、「ジャージー島の百合」。
もちろんおしゃれ語の「ジャージー」のもとになった島でもあります。
ジャージー・リリイの本名は、エミリイ・シャーロッテ・ラントリイ。1852年に、ジャージー島でお生まれになっています。
お父さんは、「ジャージー教会」の首席司祭、ブルトンでありました。
1874年に、エドワード・ラントリイと結婚したので、依頼、「ラントリイ」の名前を使ったものです。
エドワード・ラントリイは、1874年に世を去っています。
リリイ・ラントリイが舞台女優となったのが、1881年のことです。リリイ・ラントリイに、舞台女優になるように勧めたのが、ワイルド。作家のオスカー・ワイルドであります。
ひとたび舞台に立ちますと。輝くばかりの美貌で。ついた仇名が、「ジャージー・リリイ」。
この「ジャージー・リリイ」にさっそくよろめいたのが、英國皇太子。後のエドワード七世であります。
百合を描いた画家に、黒田清輝がいます。黒田清輝の花の絵は珍しいかも知れませんね。どちらかといえば、黒田清輝は美人画の印象があるのですが。
でも、黒田清輝は明治四十二年に、『鉄砲百合』を仕上げています。当時、黒田清輝の自宅は、麹町の平河町にあって。広い庭には花々が咲き乱れていて。その庭の百合をスケッチして仕上げたもの。現在は、「ブリヂストン美術館」所蔵となっています。

「私の画には苦心の作というのはない。」

黒田清輝はそんなふうに語っています。『鉄砲百合』の中の花々も、自由に、楽々と息をしているかのようです。
黒田清輝の代表作と言ってよいものに、『湖畔』があります。現在では、「国立文化財研究所」蔵となっているのですが。
黒田といえば『湖畔』。『湖畔』といえば黒田。そんな印象さえあるほどです。
明治三十年に、『湖畔』は描かれています。
背景は、芦ノ湖。モデルになったのは当時妻だった金子種子。その時、二十三歳でありました。
もともと金子種子をモデルに描く予定ではなくて。金子種子は、箱根に黒田清輝の仕事ぶりを見に行こうと。
と、黒田清輝は突然、「その石の上に坐っておくれ」と言いはじめて。
スケッチも、下絵もなにもなくて。いきなりキャンバスに油で描き出したという。
それが今日の『湖畔』になったと、伝えられています。
モデルになった金子種子は、浴衣に団扇を手に持っていて。これは避暑地での夕方ですから、浴衣なのであります。
明治三十年には浴衣は、外出着ではありませんでした。「ちょっとそこまで………」といった感じの、特別な衣裳だったのです。別の表現をすれば、斬新な、粋な、大胆な、装いだったのです。
これは金子種子が黒田清輝と結婚するまでは、藝者だったこととも関係しているのかも知れません。
このときの金子種子の浴衣は、おそらく麻地だったと思われます。明治期の浴衣は多く麻だったからです。
また明治期の浴衣は、たいてい素肌の上に着たものであります。その心は、「今、湯上がりなもので……………………。」
どなたか麻地の浴衣を仕立てて頂けませんでしょうか。

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