スタイルとスポーツ・コート

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スタイルは、様式のことですよね。styl eと書いて、「スタイル」と訓みます。
『スタイル』はまた、昔あった雑誌の名前でもあります。
昭和十一年に、宇野千代が創刊した雑誌の名前が、『スタイル』。昭和十一のことですから、表紙には『ルイタス』と書いてあった。右から左に訓ませる習慣だったので。
『スタイル』創刊号の絵は、藤田嗣治。題字を書いたのが、東郷青児。まあ、今ならそんなことは難しいでしょうね。当時であっても、宇野千代だからこその離れ技ですね。
昭和十一年の『スタイル』。これこそ日本最初のファッション雑誌といえるのかも知れませんが。
昭和十六年になって、「敵性語」の禁止。ごく簡単に申しますと、「英語を使ってはいけない」。そこで『スタイル』は改題して、『女性生活』。
昭和十九年、『女性生活』は休刊に。服より前に、食が足りなくなってきたので。
昭和二十年、敗戦。
昭和二十一年、『スタイル』復刊。

「信じられないことであるが、この、妹のはがした封筒で、私たちは毎日、風呂を焚いた。」

宇野千代著『生きて行く私』に、そのように出ています。
昭和二十一年、『スタイル』復刊。一年の予約購読料、36円60銭。この申込が全国から相次いで。為替郵便の山。
宇野千代の妹、勝子が為替郵便の封を切る役目。勝子は手が痛くて痛くて。
宇野千代は為替郵便の封筒で、風呂を沸かしたんだそうです。とにかく朝、事務所に出勤すると、購読者が長い列をつくっていたという。本屋に並ぶ前の『スタイル』を直接購読に来ていたわけですね。

「北原はお洒落で、洋服は一番館で作るものと決めていた。仮り縫いをする間、私は同じその部屋に腰を掛け、大きな鏡の中に映る北原の姿を、しげしげと見詰めていたものであった。」

同じく『生きて行く私』に、宇野千代はそのように書いています。ここでの「一番館」は、
壱番館のことかと思われます。
また、「北原」は、北原武夫のことです。当時は、宇野千代のパートナーだった人物。
その頃、銀座に「壱番館」は、四十坪の土地を持っていて。宇野千代さんなら20万円でも売ってあげよう。
宇野千代は、壱番館から20万円で銀座の土地を買ったと、『生きて行く私』には出ています。
復刊した『スタイル』には、やがて小さな男性物の頁が付くように。欄の題が、
「男子専科」。女性ファッション誌の中の、男の頁ですから、「男子専科」。たしか、
青江耿介などが原稿を寄せていたような記憶があります。この小さな頁に人気が出てきたので、一冊に独立、発展して『男子専科』が生まれたのであります。

「スチリャーガですな、その少年は」

昭和四十一年に、五木寛之が発表した『さらば モスクワ愚連隊』に、そのような会話が出てきます。
「ロシア大使館」の、「白瀬」の私への説明として。「私」はその前夜、夜の街でロシアの不良と出会う。その話を「白瀬」にしたところ。
「スチャーガですな………」
ロシア語の「スチーリ」は英語のスタイルから来ていて。「スチャーガ」となると、不良少年の意味になるという。若いにもかかわらず、西欧文化にかぶれているのは、「スチャーガ」だと呼ばれるわけですね。
五木寛之の『さらば モスクワ愚連隊』には、こんな描写も出てきます。

「私がフラノのスラックスに黄色のポロシャツ、派手な格子柄の替え上衣という恰好で降りて行くにを、メイドがうさん臭そうな目付きで眺めていた。」

五木寛之は、「替え上衣」と書いているのですが。たぶん、アメリカ人のいうところの「スポーツ・コート」なのでしょう。
アメリカでの「スポーツ・コート」は、日本の「替上着」とほぼ同じものです。ここでの、
「スポーツ」は、日本語の「余暇」に近いでしょうか。
イギリスでは「カントリー・ジャケット」の言葉があります。替上着。
イギリスで多く「ジャケット」。アメリカではふつう「コート」。時々このような逆転現象があったりするのも、面白いものです。
イギリスでの「コート」は、やや重々しく印象があるのですが。「フロック・コート」だとか、「モーニング・コート」だとか。
どなたか軽快なスポーツ・コートを仕立てて頂けませんでしょうか。

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