ホテルは、宿のことですよね。西洋式宿泊施設。
日本での「ホテル」は、慶應四年にはじまるとの説があります。
東京、築地に開かれた「ホテル館」。通称、「築地ホテル」の名前で呼ばれたという。
当時、築地は外国人居留地でもあって、異国の人の利用を考えてのことであったでしょう。
この「築地ホテル」の建築に携ったのが、清水喜助。今の「清水建設」の基礎となった人物であります。
言葉としての「ホテル」は、安政七年の『遣米使日記』に出ています。村垣淡路守範正の日記。
「………華盛頓の名もつきつきし此ホテルの部屋々々に皆旅客有遠路來りたるも……………………。」
アメリカのワシントンに行き、「ワシントン・ホテル」に泊まってのでしょうか。
さすがに村垣淡路守範正は、ホテル中を隈なく見学しています。
「一疊はかりの風呂のうちはフリツキを張り龍の口二所有水も湯も自由に出たり……………………。」
ここでの「フリツキ」は、ブリキのことかと思われます。安政七年は1860年のことで、
この時代のアメリカのホテルも、各部屋に風呂付きではなかったようですね。
然るべき場所にバスの用意があって、そこで利用したものと思われます。
1974年に、ニュウヨークのホテルに泊まったお方に、植草甚一がいるのですが。
「タクシーでプラザ・ホテルに着くと八階のセントラル・パークに面した部屋に案内された。とてもいい部屋だ。」
『植草甚一日記』、4月1日のところに、そのように書いています。
村垣淡路守範正が「ワシントン・ホテル」に泊まってから、ちょうど114年目の同じ日ということになるのですが。
『植草甚一日記』は一風変った日記で、ほとんど手書き。植草甚一が自分の日記に書いた通りの文章を、そのまま印刷しているのです。臨場感あふれる日記、そうも言えるもかも知れませんが。
「………きょうまでいくら使ったろう。計算してみたらホテル代をのぞいて1,000ドルちょっとになる。」
4月9日の『日記』には、そのように書いています。日本円でざっと100、000円くらいでしょうか。もっとも1974年のことですからね。
「じつは文房具屋の筋向いに宝石や時計のアンティック・ショップがあって、ウインドーに素晴らしい六角形の懐中時計があった。」
4月30日の日記には、そのように出ています。植草甚一は結局、この懐中時計を100ドルで買うのですが。
ポケット・ウォッチの流行期は、十九世紀以前のこと。二十世紀以降、だんだんとリスト・ウォッチが認められるようになるのですね。
どうしてリスト・ウォッチの流行が遅れたのか。その理由はいくつかあるでしょう。が、もっとも大きいのは、「女々しい」。
つまり十九世紀以前のリスト・ウォッチは「女性用」だと考えられていたのですね。
では、逆に、どうしてリスト・ウォッチが流行ることになったのか。いちいちポケットから
時計を引き出さなくてもよかったから。ちょっと手頸をひねるだけで、時間を確かめることができたので。
十九世紀と、二十世紀。まあ、それだけ人間の暮しが忙しくなったからでしょう。
どなたか暇人のための暇時計を作って頂けませんでしょうか。