パンテオンと法被

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パンテオンは、パリの名所ですよね。
パリのパンテオン広場にあります。メトロの「リュクサンブール駅」から、すぐ近くです。
1755年の建設。ひと口で申しますと、墓。ただしフランスにとって偉人とされる人物の墓。
パンテオンには多くの偉人が眠っています。まず例外なく男性の偉人。でも、例外はあります。
ソフィー・ベルテロと、マリイ・キュリーとの二人だけ。
ソフィーの夫は、優れた医学者の、マルスラン・ベルテロ。マルスランとソフィーは強い愛情で結ばれた夫婦だったのです。
1907年3月18日。かねて療養中だったソフィーが、死去。と、その一時間後に、マルスランも世を去る。たぶん自死を選んだのでしょう。
それでと言って良いのかどうか。別々に葬り難くて、パンテオンで、共に眠っているわけです。
パンテオンを広く理解すると、「聖地」でもあって。聖地としての「パンテオン」なら、パリに限ったことではありません。

「中食後パンテオンの前でマッツォニと一緒になり、ヴヰットリオ・エムマヌエーレの大通りを横ぎつて……………。」

有島武郎が、大正七年に発表した『旅する心』に、そのような文章が出てきます。これはイタリア、ロオマでの紀行文。ロオマにも「パンテオン」はあるのですね。
この後、有島武郎は「蚤の市」を見物して。そして、考えるのです。

「羅馬に至つては又趣を異にしてゐる。彼等の大部分は明かにその國風を持續して
ゐる。」

これはロオマ人の衣食住について。アメリカに住んでいるロオマ人はアメリカ化しているのに対して、ロオマのロオマ人は今なおロオマ的習慣を好んでいる、と。
大正八年に、有島武郎が完成させた小説に、『或る女』があります。この冒頭に。

「若奥様、これをお忘れになりました。」
と云ひながら、羽被の紺の香の高くするさつきの車夫が、薄い大柄なセルの膝掛を肩にかけたまま……………。」

そんな一節が出てきます。
法被もまた日本の伝統衣裳のひとつでしょう。

「大名の火事羽織はくすべ皮なり。従者は木綿のハツピ、夫よりしばしば災火ありて、大名は羅紗となり。従者は皮羽織となる、故に価貴くして、たび皆木綿となるなり。

司馬江漢著『春波楼筆記』には、そのように出ています。
江戸期には、「皮足袋」は珍しくはありませんでした。が、火事装束に多く皮が用いられるようになって、高騰。ために木綿足袋が多くなったろ、説いているわけですね。
法被は、「ジャパニーズ・カーディガン」と思えばよいのではないでしょう。
どなたか現代風の法被を仕立てて頂けませんでしょうか。

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